トップ > 杜甫詩 > 杜甫アウトライン > 杜甫と李白 > ・贈李白[五言律排] 贈李白[七言絶句] 送孔単父謝病歸游江東,兼呈李白 遣懐 冬日有懐李白 春日憶李白 飲中八仙歌 夢李白二首 天末懷李白 昔游 不見
■ 杜甫 李白を詠う
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277 昔游
958大暦3年768年57歳 277 昔游
15 昔遊(是時倉廩実)
杜甫は「是の時 倉廩実ち 洞達 寰区を開く」とあるように「開元の治(盛世)」を謳歌していたようです。
単父での交遊のあと、李白と杜甫は高適と別れ、二人は斉州(山東省済南市)へ行くことになりました。
杜甫は翌天宝四載(745)の夏の終わりまで斉州にいて、李之芳の知人や斉州の知識人と交流して過ごします。李白は道士の資格を取るために、斉州の道観紫極宮の道士高如貴(こうじょき)のもとに入門します。李白は道士の修行を終えると、魯郡の「魯の一婦人」と称される女性のもとで日を過ごしていました。
8 昔遊 (李白と旅する)
744年 天宝3載33歳
三人は秋の終わりから冬のはじめにかけて、孟諸沢で狩りの遊びをしました。
杜甫14
昔遊
昔者与高李、晩登単父台。
寒蕪際碣石、万里風雲来。
桑柘葉如雨、飛霍共徘徊。
清霜大沢凍、禽獣有余哀。
是時倉廩実、洞達寰区開。
猛士思滅胡、将帥望三台。
君王無所惜、駕馭英雄材。
昔 李白や高適(こうせき)と
日暮れに 単父の台の登る
寒空の下 荒地は碣石につらなり
万里の彼方から 風雲がやってきた
桑の葉は 雨のように落ち
豆の葉も あたりに飛び散る
霜は清らかに降りて 大沢は凍り
鳥や獣は 哀しげな声で啼く
時に天下の米倉は満ちあふれ
大道はいたるところに通じていた
勇士は胡賊を滅ぼそうと思い
将軍は三公の位につこうと考えていた
君王は彼らの欲するものを惜しげなく与え
天下の人材を自由にあやつられた
宋城の東北には、当時、孟諸沢(もうしょたく)という沼沢が広がっていて、良い猟場でした。三人は秋の終わりから冬のはじめにかけて、孟諸沢で狩りの遊びをしました。
三人は狩りが終わると、孟諸沢の東北にあった単父(山東省単県)の東楼に登楼して、酒宴を開いたことが李白の詩でわかります。「単父台」というのは単父の北にあった琴台(きんだい)のことで、三人がここを訪ねたのは孟諸沢での狩りのあとでしょう。琴台はむかし孔子の弟子の?子賎(ひつしせん)が琴を奏しながら良い政事を行ったという伝説の場所です。
琴台の地は、北は碣石山(河北省昌黎県の北)につらなっており、北から冷たい風が吹いてきます。風に吹かれて落ち葉が舞い、霜が降りて孟諸沢は凍りつき、鳥や獣の哀しそうな鳴き声が聞こえてきます。淋しげな荒れた風景の描写です。
「昔遊」の詩句からは、杜甫が安禄山の乱が迫っているのを予感しているような印象を受けます。それは「昔遊」が後年の作というこもありまが、詩人の目から社会の矛盾を感じていたのです。
もともと、教養のない外国人の安禄山が天宝元年に平盧節度使になったのですから、三人は名前も知らなかったでしょうし、一抹の不安をともったのです。「是の時 倉廩実ち 洞達 寰区を開く」と「開元の盛世」はなおつづいていましたが、張説、張九齢を失脚させていく勢力が朝廷を支配していたのです。李林甫です。李林甫はこの頃、貴族勢力の正統派と文人を粛清していました。それと、無学な武人を登用して自分の勢力を固めていったのです。
李白が、朝廷に対してのいい詩を書いても、其れがストレートに理解される状況ではなくなっていました。美しい分というより、詩文革命を起こしている杜甫が理解され、登用される環境はまったくありません。
杜甫は就職活動がうまくゆかず、社会矛盾を感じつつ、」詩人中とのたのしかった遊びをおもいうかべたのです。
昔者 與高李、 晩登 單父台。
寒蕪 際碣石、 萬里 風雲來。
桑柘 葉如雨、 飛霍 去裴回。
清霜 大澤凍、 禽獸 有餘哀。
是時 倉廩實、 洞達 寰區開。
猛士 思滅胡、 將帥 望三台。
君王 無所惜、 駕馭 英雄材。
幽燕 盛用武、 供給 亦勞哉。
呉門 轉粟帛、 泛海 陵蓬莱。
肉食 三十萬、 獵射 起黄埃。
隔河 憶長眺、 青歳 已摧禿。
不及 少年日、 無複 故人杯。
賦詩 獨流涕、 亂世 想賢才。
有能 市駿骨、 莫恨 少龍媒。
商山 議得失、 蜀主 脱嫌猜。
呂尚 封國邑、 傅説 已鹽梅。
景晏 楚山深、 水鶴 去低回。
朧公 任本性、 攜子 臥蒼苔。