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2. 前221〜前206
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3.新 8〜23
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後漢25〜220  184〜280
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黄巾の乱
230頃 竹林の七賢
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4.五胡十六国 301頃〜439
 東晋 317〜420
 元帝 (東晋)   王羲之   陶淵明(陶潜) 僧肇
   420〜479 永明体
 謝霊運 顔 延之
 北魏386〜535
  鮑照  
    420〜479 永明体

  謝兆    任 ム  沈約  王融  蘇小小  孔稚珪  刑邵  斛律金  鍾エ
   502〜557
  蕭衍・梁武帝   范雲  何遜  王籍  陸垂  蕭陳  萸信  王褒  徐 陵

   557〜589
  陳後主  陰鏗


 581〜618
  楊 素  薛道衡  観徳王・楊雄

 ○ 初唐の詩人たち
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南宋1127年 - 1279年
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金  1115〜1234
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元  1271〜
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昭君怨  王昭君 

秋木萋萋,其葉萎黄。

有鳥處山、集于苞桑。

養育毛秩A形容生光。

既得升雲、上遊曲房。

離宮絶曠、身體摧藏。

志念抑沈、不得頡頏。

雖得委食、心有徊徨。

我獨伊何、來往變常。

翩翩之燕、遠集西羌。

高山峨峨、河水泱泱。

父兮母兮、道里悠長。

嗚呼哀哉、憂心惻傷。


秋の樹木が茂って(いるが)、
(やがて)その葉はしおれて黄ばむ(ことになる)。
鳥が山に棲んでいて、クワの木の根元に集まってくる。
羽を育てて、美貌は光り輝いている。
御殿に昇ることとなったばかりか、上つ方後宮に過ごす身となった。
皇宮は極めて広い(ので)、(我が)肉体は、衰えくじかれてきた。
(我が)心は、沈鬱になってきている、鳥のように(大空を)飛び上がったり、舞い下りたりすることができなくて。
養っていただいているとはいうものの、心の中では、(自由に)さまようことを思う。
養っていただいているとはいうものの、通行状態が世の常と異なっているのか。
身軽く飛ぶツバメは、はるか西の方のえびす。
(間を遮るが如き)高山は、高く険しく、川の流れは、水の深く広い。
父よ、母よ、(故郷、漢の地までの)道程は、遙かに遠い。
(故郷、漢の地までの)道程は、遙かに遠い、憂えた心で、憐れみいたんでいる。






















































































































































































































昭君怨  王昭君  

秋木萋萋,其葉萎黄。

有鳥處山、集于苞桑。

養育毛秩A形容生光。

既得升雲、上遊曲房。

離宮絶曠、身體摧藏。

志念抑沈、不得頡頏。

雖得委食、心有徊徨。

我獨伊何、來往變常。

翩翩之燕、遠集西羌。

高山峨峨、河水泱泱。

父兮母兮、道里悠長。

嗚呼哀哉、憂心惻傷。


秋の樹木が茂って(いるが)、
(やがて)その葉はしおれて黄ばむ(ことになる)。
鳥が山に棲んでいて、クワの木の根元に集まってくる。
羽を育てて、美貌は光り輝いている。
御殿に昇ることとなったばかりか、上つ方後宮に過ごす身となった。
皇宮は極めて広い(ので)、(我が)肉体は、衰えくじかれてきた。
(我が)心は、沈鬱になってきている、鳥のように(大空を)飛び上がったり、舞い下りたりすることができなくて。
養っていただいているとはいうものの、心の中では、(自由に)さまようことを思う。
養っていただいているとはいうものの、通行状態が世の常と異なっているのか。
身軽く飛ぶツバメは、はるか西の方のえびす。
(間を遮るが如き)高山は、高く険しく、川の流れは、水の深く広い。
父よ、母よ、(故郷、漢の地までの)道程は、遙かに遠い。
(故郷、漢の地までの)道程は、遙かに遠い、憂えた心で、憐れみいたんでいる。



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王昭君ものがたり

 王昭君ものがたり
   1.はじめに

 2.匈奴に嫁いだ悲劇の美女を生んだ地方とは 

 3.武帝(在位BC141〜BC87)の匈奴強硬外交

 4.王昭君が嫁いだ匈奴

 5.後日談として   (青塚)
昭君ものがたり

1.はじめに関連  李白 王昭君を詠う > 王昭君二首
                       李白35 王昭君を詠う(3)于巓採花
          白楽天 王昭君を詠う> 王昭君 二首 白楽天

                 王昭君ものがたり





 1.はじめに

 王 昭君は、匈奴の呼韓邪単于、復株累若是単于の時代の閼氏(単于の妻)。姓を王、諱を是とも(出典は、班固『漢書』)。字を、昭君。日本では通常、王昭君と呼ばれるが、地元(フフホトの方)では”昭君”と呼ばれている。荊州南郡(現在の湖北省沙市)出身で、楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ古代中国四大美人の一人に数えられる。


 生涯前漢の元帝の時代、匈奴の呼韓邪単于が、漢の女性を閼氏(匈奴の言葉で君主の妻)にしたいと、元帝に依頼したところ(逆に漢王朝が持ちかけたという説もある)王昭君が選ばれ、以後呼韓邪単于の閼氏として一男を儲けた。しかしその後、呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣(遊牧民に多く見られるレヴィレート婚)に習い、義理の息子に当たる復株累若?単于の妻になって二女を儲けた。

 漢族は父の妻妾を息子が娶ることを実母との近親相姦に匹敵する不道徳と見なす道徳文化を持つため、このことが王昭君の悲劇とされ、民間伝承となった。

 『西京雑記』によると、元帝は匈奴へ贈る女性として後宮の中の一番醜い女性を選ぶため、宮女の似顔絵帳の中の一番醜い女性を選ぶことにした。似顔絵師であった毛延寿に賄賂を贈らなかった王昭君は一番醜く描かれていたため、王昭君が匈奴への嫁として選ばれた。皇帝に別れを告げるための式で王昭君を初めて見た元帝は王昭君の美しさに目を奪われたが、匈奴との関係悪化を恐れ、この段階になって撤回することも出来ないため渋々送り出した。その後、画工の不正に気付いて激怒した元帝は毛延寿の首を刎ねた。その後、呼韓邪単于が亡くなり、匈奴の習慣に習い息子の復株累若?単于の妻になった。そのとき、王昭君は、反発したが漢王朝から命令されしぶしぶ妻になったと記述がある。

 これには疑問が多い。匈奴は当時の漢にとって最も重要な外交相手であり、その相手に対して敢えて醜い女を渡すといった無礼をするとは考えにくい。これらの話は五胡十六国時代・南北朝時代に鮮卑に支配されていた漢族たちが自分たちの境遇を託したものではないかと考えられる。

 これらの話は後漢代の『西京雑記』に載せられたのを初めとして(画工への賄賂の話はこれが初め)、晋代の『王明君辞』、元の馬致遠の雑劇『漢宮秋』などに作品化された。絶世の美女でありながら宮廷画工の毛延寿に贈賄しなかった事で醜女に描かれ、そのため匈奴に送られ、長城を越えるところで嘆き死んだとされる王昭君の悲劇譚は、華北を支配した異民族に圧迫された六朝時代に成立したものと考えられる。王昭君伝説は以後も脚色を重ねて、傑作として欧米にも紹介された。

 王昭君の墓は、現在の内モンゴル自治区のフフホト市にあり、陵墓の周囲には王昭君の郷里の家を再現した建物や庭園が整備され、また敷地内には匈奴博物館などがあり、観光スポットとして人気が高い。



2.匈奴に嫁いだ悲劇の美女を生んだ地方とは
 2.匈奴に嫁いだ悲劇の美女を生んだ地方とは

 今から約2千年昔、ある一人の絶世の美女が、外交上の犠牲となって蛮族と言われる匈奴の王に嫁つがねばならなかった。彼女の数奇な運命は、その後、数々の伝説となり、いろいろな戯曲、小説のテーマにもなり今日まで語り継がれている。  
 しかし、なぜ、彼女、王昭君(おうしょうくん)は外交の犠牲となって悲劇のヒロインにならねばならなかったのだろうか? 楊貴妃らと並んで古代中国の4大美女の一人に数えられるも、出没年不明とされ、その多くは謎に包まれたままの伝説のヒロイン王昭君の実体は、いかなるものだったのだろうか? また、彼女の嫁いだ匈奴とは、いかなる民族であったのだろうか?  

 古代中国の王朝の歴史は、押し寄せる異民族匈奴との攻防の歴史と言っても過言ではない。歴代の王朝は、この恐るべき異民族との戦いに常に辛酸を嘗めさせられていたのである。ところが、超国家と言われる秦が誕生すると、始皇帝は、その強力な国力をバックに、北辺の防波堤ともいうべき万里の長城を構築し、同時に匈奴をはるか北にまで追い出すことに成功した。  
 しかし、紀元前221年、独裁者始皇帝の死とともに秦は、がれきのごとく滅び去ってしまった。秦が滅亡するや否や、全国各地で農民の反乱がぼっ発し、中国全土は、再び戦乱のるつぼに変わり果ててしまったのである。その結果、広大な中国の覇権は、2人の二強の争いによって決められることとなった。漢の劉邦(りゅうほう)と楚の項羽(こうう)である。  
 彼らは、数年の間、縦横に戦陣を駆け巡り、幾度か激しく刃を交えたが、決定的な勝敗は未だ着かずにいた。しかし、ついに雌雄を決する時がきた。紀元前202年に行われた亥下(がいか)の戦いがそれである。この時、周囲を漢の30万の軍勢に包囲された項羽は、夜更けに、敵陣の中から自分の故国である楚の歌がまき起こるのを聞いて、多くの味方が敵に寝返ったと思い、もはやこれまでと敗北を覚悟したという話は有名である。

 こうして、勝利の女神は、漢の劉邦に微笑み、戦いに破れた項羽は自決したのである。この時、すでに秦の滅亡より20年の月日が経っていた。勝利者となった劉邦は、漢王朝を打ち立てた。いわゆる前漢時代の始まりである。


 劉邦はやがて、高祖と自らを名乗り、初代の皇帝についた。彼は、その時、46才になっていた。劉邦は、まず都を咸陽から長安に移し、前政権の秦の失敗を教訓にして、現実的な方針で国をまとめ上げていくことに全力を投入していった。そのかいあって、漢の国力は次第に充実の一途をたどっていった。

 

 しかし一方、外交関係で忘れてはならない重大問題が残されていた。北方の異民族「匈奴」の恐ろしい脅威である。  
 秦の始皇帝が、あれほど民衆を弾圧して恐怖政治をひいたのも、北の蛮族、匈奴の
脅威を覚え、その侵入を食い止めるために万里の長城を築くため全力を投入した結果に他ならない。  
 その頃、秦の滅亡後、中国が四分五裂していた内乱の時期に乗じて、匈奴は始皇帝時代に追い出された地域を回復し、再び勢力を取り戻しつつあったのである。  
       

              匈奴侵入の阻止を目的につくられた万里の長城  

 まもなく、匈奴は、国境侵入を頻繁に繰り返し、殺りく、略奪などの大被害を与えるようになってきた。そこで、漢の高祖劉邦は、これを阻止しようと打って出たところ、逆に平城(大同)近郊で匈奴の大軍に包囲されて大敗北を喫してしまった。  
 それ以後、漢の皇帝は、匈奴の単千(ぜんう)を属国条件という屈辱的な和睦を結ばねばならなかった。単千とは、匈奴の君主を意味する称号である。確かに、誇り高い中国の天子が、野蛮な遊牧民に従始し、朝貢するということは、堪え難い屈辱であった。それを飲まなければ、和平が成立し得ないのも事実なのであった。



3.武帝(在位BC141〜BC87)の匈奴強硬外交
 3.武帝(在位BC141〜BC87)の匈奴強硬外交

 漢の隷属策も、武帝の登場によって大転換が図られる。新進気鋭の武帝は、即位するなり、一転して匈奴に対して強気政策を執るようになったのだ。  
    武帝は、捲土重来を期して蓄えられた軍資金で、匈奴を撃滅するための計画に着手した 。始皇帝時代に築かれた長城の修復、増強を続ける傍ら、匈奴と仲の悪かった遊牧民族の一つ、大月氏と組み、匈奴打倒と張騫(ちょうけん)を派遣した。
 また、天才将軍として誉れの高い衛青(えいせい)、雀去病(かくきょへい)の二人の将軍に大軍を預け、匈奴征伐を命じたのである。  
   
 この武帝に始まった強気一辺倒の政策は、一応の成果を収めたものの滅ぼすまでに至らず、百年経過、元帝の時代になると、漢の国力は膨大な軍事費支出により、低下を余儀なくされた。当然、匈奴も、疲弊衰退し、挙句に内部分裂を起こして東西、二国に分裂してしまった。  
 西の匈奴は依然強力だったが、東の匈奴は、漢に降伏して和睦を申し出てきたのである。そして紀元前33年、東の匈奴の乎韓邪単千(こかんやぜんう)は、漢との関係をさらに強化するために、皇帝の血をひく子女を妻にしたいと申し出てきたのである。一方、漢側としても、西の匈奴を牽制するためにも、呼韓邪単千率いる東の匈奴を手なずけておくことは必要だった。
   
 しかし、今や、匈奴が巨大な帝国を誇り、漢の天子を見下していた200年前とは異なり、立場が逆転していた以上、漢の元帝にとっては、蛮族である匈奴に、皇帝の子女を出す気などさらさらなかったのである。そうして、彼は、3千人の女性がいると言われる後宮の中から適当な者、つまり最も醜い宮女を選び、それですませてしまおうと考えたのである。  
 これが王昭君が選ばれることになった背景と言われている。  




4.王昭君が嫁いだ匈奴
 4.王昭君が嫁いだ匈奴

 王昭君が、匈奴の王に嫁ぐことになった伝説の物語。それは、王昭君が、自分の肖像画を描かせる際、宮廷画家にワイロを支払わなかったために、故意に醜く描かれ、それが災いして、匈奴の王妃に選ばれてしまったという伝説である。

 
 当時、後宮には膨大な数の宮女がいたので、皇帝としても、その日の寵愛の相手を決めるのが楽ではなく一仕事だったと言われている。ある皇帝などは、ひつじに引かせた車に乗り、女性ばかりが住む後宮内を適当に回り、たまたま、ひつじが立ち止まった前の部屋の女性を選んでいたという話もあるくらいだ。それを知った女性たちは、ひつじの好物を部屋の入り口に置き、その匂いで何とかして、皇帝のひつじを止まらせようと躍起になったということである。  
 なにしろ、後宮には、何千人という宮女がいるので、皇帝の目に留まり、寵愛を受けることは大変なことだった。いたずらに時が過ぎ、皇帝にまみえることもなく、空しく老いていった女性は、それこそ無数にいたのである。

         
 王昭君は、南の斉(せい)の国の王氏という良家の娘で、17才の時、あまりに可憐な美しさに、選ばれて元帝の後宮に入った。  
 当時、元帝は、その日の寵愛の相手を宮女の描かれた肖像画を見て決めていた。後宮の女性たちは、肖像画を描く宮廷画家、毛延寿(もうえんじゅ)に、自分を美しく描いてもらおうとワイロを贈った。
 毛延寿は次第に支払われるわいろの額に応じて、美しさの出来を左右させた。最後には、ワイロの額を競い合せ額を自ら決めたといいます。

 しかし、王昭君は、自分を必要以上に売り込まなかったのである。彼女は、それをせず、いたって冷ややかな態度をとっていたのである。彼女が自分の容姿に自信があったとか、不正を憎む性格であったためだとか、真相はわからないが、王昭君の平然とした鼻持ちならぬ態度が、毛延寿の怒りを招く結果となって、醜女に描かれてしまった。


 王昭君にいつまでたっても皇帝から指名の声はかからなかった。彼女自身も、寵愛されたくないない。彼女に寵愛がかかると一族の名誉であり、期待がかかっている。自分の肖像画に問題があるなど知る由もなく、空しく時は去ってゆき、皇帝が後宮に来ても、顔も出さなくなっていった。

 
 かくして、匈奴の呼韓邪単千(こかんやぜんう)に嫁がせる女性の人選が始まった。元帝は、最果ての地に住む蛮族の嫁にだすのだから、醜女を最初から考えていた。元帝は、肖像画をもとに選んだ。
 
 人身御供探しは、膨大な美女ばかりの絵の中から、醜い肖像画を見つけるに難しくはなかった。蛮族に嫁ぐことになる人身御供は、決められたのであった。  
     


 匈奴に旅立つ当日、元帝は、この哀れな女に別れのねぎらいの言葉をかけてやるつもりで王昭君を謁見した。彼女の並外れた美貌を一目見て、元帝はびっくり仰天せざるを得なかった。彼女は、どう見ても後宮第一の美女だったからである。元帝は地団駄踏んたが、後の祭りである。悔しさと怒りで、逆上した彼は、ただちに毛延寿を逮捕して、市内を引き回した上、首を刎ねて処刑してしまった。  
     

 その後の王昭君は、馬匈奴に向かう2千キロもの道のりの途に就いた。長旅は、山超え、砂漠を超え、草原を超え、延々2か月以上もかかる辛いものであった。  
 その際、彼女は、怨思の歌(えんしのうた)という歌をつくり、元帝に贈った。
 
 その歌には、一度も寵愛されることがなく、さい果ての異境の地に赴かねばならなかった怨みの思いが綴られているものであった。  
 彼女は、毎日、漢のある方角を眺めては帰郷の念にかられて涙し、そして、3年後、呼韓邪単千(こかんやぜんう)が死ぬと、子供の妃にならねばならないという匈奴の掟を拒み、毒を仰いで自殺したということである。  
  匈奴の地、大草原の夜明け。中国人からすれば、さい果ての地であった。  
 

5.後日談として
 5.後日談として  (青塚)

 これは、フィクションであり、悪徳画家の毛延寿は実在しない。戯曲や小説を面白くするための脚色で、後世の人がドラマ性を持たせるためにつくり上げた。話を面白くして、王昭君を悲劇のヒロインに仕立て上げた。悪役が必要だったのである。そして、この伝説は、日本の今昔物語にまで影響をおよぼしている。  

 しかし、現実は「漢書」などの正史によると、王昭君は匈奴の地で単于の皇后となり、寧胡閼氏(ねいこあっし)と呼ばれたそうである。そして、匈奴の民に大変大切にされたとある。やがて、王昭君は単于との間に、男子を設けたが、嫁いでから三年目、単于が亡くなると、匈奴の慣習にしたがって、今度は新王の妻となり、さらに女子二人を生んだのである。彼女は匈奴の地でたくましく生きたのである。
 
 確かに、自分の意思に反して、異民族に嫁していくというという運命は、女性にとって悲嘆にくれる事実そのものである。しかし、その悲劇性が大きければ大きいほど、物語は面白い。誰もが無条件に感動する内容に脚色され物語性も豊かな伝説となっていったのだ。
 
 現在、王昭君の墓は、フフホト市(内モンゴル自治区)の山のふもとにある。フフホト市は、今では人口200万を擁する大都市である。また、フフホトとは、モンゴル語で青い城を意味する。常緑の城、誰もに尊敬される存在となっているのである。  


 その墓には彼女の像が建てられている。  

 その記念碑では、王昭君と夫の呼韓邪単千がともに馬に乗り寄り添うように闊歩している。  
 そこには、外交の犠牲になり悲劇の美女というイメージは微塵も感じられない。  

 フフホトにある王昭君の墓の記念碑  
 
 彼女の墓は、いつしか「青塚」と呼ばれるようになった。それは、匈奴の地では、白い草しか生えず、それも秋になると草木はみんな枯れてしまうのに、王昭君の墓の周辺だけはいつも枯れることもなく、ずっと濃い緑の草木が満ちているからだそうである。  
 青い草は、中国の地にのみ生えるものらしい。そう考えると、彼女の故郷を想う哀愁が、変じて草木に宿ったのだとすれば、それもうなずけるというものだ。

    

  

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