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13淮南臥病書懐寄蜀中趙徴君
14贈孟浩然
15黄鶴楼送孟浩然之広陵
16登太白峯
17少年行

◎ 李白杜甫を詠う




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李白に贈る

秋来(しゅうらい) 相顧みれば 尚お飄蓬(ひょうほう)たり

未だ丹砂(たんしゃ)を就(な)さずして葛洪(かつこう)に愧ず

痛飲(つういん) 狂歌(きょうか) 空しく日を度(わた)り

飛揚(ひよう) 跋扈(ばっこ) 誰(た)が為にか雄(ゆう)なる
















其の一
金樽(きんそん)の清酒は斗十千(とじゅうせん
玉盤の珍羞(ちんしゅう)は  直(あたい)万銭
盃を停(とど)め筋(はし)を投じて食(くら)う能(あた)わず
剣を抜いて四顧(しこ)し  心茫然たり
黄河を渡らんと欲すれば氷(こおり)川を塞(ふさ)ぎ
将(まさ)に太行(たいこう)を登らんとすれば雪天を暗くす
閑来(かんらい)  釣(ちょう)を垂れて渓上に坐し
忽ち復(ま)た舟に乗って日辺(にちへん)を夢む
行路(こうろ)難(かた)し  行路は難し
岐路(きろ)多くして  今(いま)安(いずく)にか在る
長風(ちょうふう)浪を破る 会(まさ)に時(とき)有るべし
直ちに雲帆(うんぱん)を挂(か)けて滄海を済(わた)らん








其の二
大道(たいどう)は晴天の如し
我(われ)独り出ずるを得ず
羞(は)ず  長安社中の児(じ)を逐(お)うて
赤鶏(せきけい) 白狗(はくく) 梨栗(りりつ)を賭するを
剣を弾じ歌を作(な)して  苦声(くせい)を奏(そう)し
裾(すそ)を王門に曳きて  情に称(かな)わず
淮陰(わいいん)の市井   韓信(かんしん)を笑い
漢朝(かんちょう)の公卿  賈生(かせい)を忌(い)む

君見ずや 昔時(せきじ)の燕家(えんか)郭隗を重んじ
?(すい)を擁し節(せつ)を折って嫌猜(けんさい)無し
劇辛(げきしん) 楽毅(がくき) 恩分(おんぶん)に感じ
肝を輸(いた)し膽(たん)を剖(さ)いて英才を效(いた)す
昭王の白骨 蔓草(まんそう)に?(まと)わる
誰人(たれひと)か更に掃(はら)わん 黄金(おうごん)台
行路(こうろ)は難(かた)し
いざ帰去来(かえりなん)

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行路難 三首 李白  


行路難 三首

    ------- 李白杜甫に悩みを打ち分ける
 杜甫は、洛陽にいて血縁とか、貴族の子息などとの付き合いに辟易していた。李白出会いで、その風采が超絶し、天才的な詩に対し一挙に心酔してしまった。叔母の葬儀があるので、一緒に旅立てない。後を追って往くことを約束した。叔母の葬儀を終えて、この「謫仙人」(1)李白を求めて東方の梁宋(河南開封、商邱地方)に遊ぼうとしたのである。
天宝3載744年杜甫33歳 李白44歳であった。

 この時の出会いは,特に杜甫に好影響を与え、技術的に格段の上達を見る。

 その後の二人は、詩の交換を通じて情をうまく表現した傑作をのこす。先ず、杜甫が先輩の李白に贈った詩に「贈李白」がある。

秋來相顧尚瓢蓮、未就丹砂愧葛洪。


痛飲狂歌空度日、飛楊跋扈為誰雄。


  秋になり顔を見合わせると  瓢か蓬のように頼りない
  いまだ丹砂にも辿りつけず  葛洪に合わせる顔がない
  飲み明かし  歌い狂って  空しく日を送り
  飛び跳ねて暴れているが  誰のためにやっているのだ



 と、杜甫が李白と遊んでいる嬉しい様を、歌に託して李白に贈っている。
 こうして、杜甫と李白は一層、仲睦まじくなり、その年の秋には約束して梁宋に出掛けている。この地方には岑参(しんじん)、高適(こうせき)のような詩人たちもいたので、共に酒を飲み、詩を賦して意気投合し愉快な日々をおくっていた。城中の酒楼や吹台に上って眺望を恣にして、古を懐かしんでいる。

  その翌年、天宝4載745年杜甫34歳は、李白が魯郡の任城に家を持ったので、ここに杜甫を迎えて、さらに、互いに親交を深めている。この頃が二人とも詩情が溢れ、詩作が最も盛んな時期である。

 李白は杜甫の詩才を讃え、杜甫は李白を慕い賞賛の辞句を数多く入れて詩を作っている。このように二人が極めて親しく交わり、詩を贈答しあったことは歴史の偶然といえ、漢詩文学にとっては画期的なことと特筆されている。

 李白も、現実の社会では障害や自分の奔放さの性格から苦難を免れないと悟っていたので、初めて出会い親しくなった杜甫に打ち明けたのだ。

 「蜀道難」は他人のことを詠う詩でしたが、「行路難」はみずからの人生行路の困難を詠うものです。食事も咽喉を通らず茫然としてあたりを見廻しますが、八方ふさがりの状態です。「行路難し 行路は難し、岐路多くして、今安にか在る」と悲鳴をあげながらも、「長風浪を破る 会に時有るべし」と将来に期待を寄せたいと杜甫に訴えたのです。朝廷を放免されたことは李白にとって、死ぬほどのショックなことだった。


其一
金樽清酒斗十千,玉盤珍羞直萬錢。
停杯投箸不能食,拔劒四顧心茫然。
欲渡黄河冰塞川,將登太行雪滿山。
閑來垂釣碧溪上,忽復乘舟夢日邊。
行路難,行路難,多岐路,今安在。
長風破浪會有時,直挂雲帆濟滄海。

金樽の清酒は  一斗で一万銭
玉盤の料理は  珍味で一万銭
そんなご馳走も食べる気がしないので
剣を抜いて周囲を見廻し  茫然とする
黄河を渡ろうとすれば   氷が川を塞ぎ
太行山に登ろうとすれば  雪で天空も暗い
川辺に坐して  のどかに釣り糸を垂れているが
また舟に乗って天子の近く  都の夢をみる
人生行路は困難だ  困難だらけだ
岐路が多く  どうしていいか分からない
風に乗じて   船を出す時はきっと来る
時がいたれば帆をかかげ  大海原を渡るであろう






其二
大道如青天,我獨不得出。
羞逐長安社中兒,赤?白狗賭梨栗。
彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。
淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。

君不見昔時燕家重郭隗,擁?折節無嫌猜。
劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。
昭王白骨?爛草,誰人更掃?金台。
行路難,歸去來。

天下の公道は青天のように広いが、
私だけが大道に出ることができない。
はずかしいが長安の市中で子供らと、
闘鶏や闘犬に梨栗を賭けて遊んでいる。
馮驩は剣を弾いて歌い孟嘗君に苦言を呈し、
漢の鄒陽は王に仕えて思うようにならなかった。
淮陰の市井の徒は韓信をあなどり、
漢の公卿たちは賈誼を忌み嫌った。

君見ずや  戦国燕の昭王は郭隗を重く用い
鄒衍を迎えるに 礼を尽くして疑わなかった
劇辛や楽毅は 君恩に報いようと
肝胆を砕いて 才能の限りをつくす
だがいまは 昭王の墓は蔓草に蔽われ
黄金台の跡を 掃除する人もいない
人生行路は困難だ
さあ郷里(くに)へ帰ろう


 「大道」とは天下の政事にかかわる道のことです。自分だけがその道に出ることができないと、李白は嘆きます。長安の市中で子供らと賭け事の遊びをして暮らしていると、自分を笑います。
 それから史上で有名な七人の快男子を取り上げますが、前半では四人です。はじめの二人は名前が出てい
ませんが、当時はよく知られた人物であったので、事跡を書くだけで誰のことか分かったのでしょう。ある
いは詩の韻を踏む上での制約があったのかもしれません。
 「剣を弾じ歌を作して 苦声を奏し」たのは孟嘗君の客馮驩(ふうかん)のことで、前にも出てきました。つ
ぎは漢の鄒陽(すうよう)のことで、鄒陽は呉王劉鼻(りゅうび)に仕えていましたが、諫めて聞かれなかった
ので呉を去り、粱の孝王劉武(りゅうぶ)に仕え、智略がありました。淮陰の韓信は有名な股くぐりの話です
。「賈生」は若くして漢の文帝に用いられた賈誼(かぎ)のことで、公卿(こうけい)たちのそねみを買い、長沙
王の太傅(たいふ)に左遷されました。能力がありながら世に用いられなかった人々の名を挙げて、李白は自
分の身に例えているのでしょう。

 後半では戦国時代燕(えん)の昭王に仕えた忠義の士を取り上げています。昭王は斉(せい)から受けた恥辱
をはらすため、まず郭隗(かくかい)を重く用います。「隗より始めよ」の故事として有名です。昭王が賢王で
あることを知って燕に集まって来たのは鄒衍(すうえん)、劇辛、楽毅らです。鄒衍については名前が出てお
らず、昭王が丁重に迎えたようすを書いています。
 昭王はこれらの人々の働きによって斉を討つことができましたが、いまは昭王の骨は蔓草にまといつかれ
、宮殿の黄金台の跡も荒れ果てて掃除をする人もいないと、功業のはかないことに言及します。そして最後
を「帰去来」と陶淵明の詩句で結ぶのです。





其三
有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。
含光混世貴無名,何用孤高比雲月。
吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。
子胥既棄呉江上,屈原終投湘水濱。
陸機雄才豈自保,李斯?駕苦不早。
華亭鶴唳渠可聞,上蔡蒼鷹何足道。
君不見呉中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。
且樂生前一杯酒,何須身後千載名。