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安史の乱


安史の乱期のアジアの勢力図
 はじめに   安禄山の叛乱   叛乱の背景    どうして長期に及んだのか
3.その時 皇帝  玄宗     粛宗  タラス河畔の戦い
官僚1  高仙芝   郭子儀   李光弼    顔真卿   哥舒翰
官僚2  李輔国    高力士    楊国忠
詩人  王昌齢 高 適   裴 迪   張 謂  賈 至  岑  参  儲光羲
 三詩人の安史の乱(対比表)  王 維  李 白    杜 甫
叛乱軍
寝返  張均   張汨   陳希烈   達奚c
参加  安禄山  安慶緒  史思明  

   

 はじめに

・ 755年11月初から763年にかけて、范陽・北方の辺境地域(現北京周辺)の三つの節度使を兼任する安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱である。

 反乱した安禄山の軍に対する唐の国軍の大部分はほとんどが経験の少ない傭兵で、全く刃が立たず、安禄山率いる反乱軍は挙兵からわずか1ヶ月で、唐の東都(中国の中心と考えられていた)洛陽を陥落させた。

 安禄山は皇帝(聖武)を名乗り、さらに長安へと侵攻を開始し6月長安の手前最後の砦である潼関が破られる。玄宗は蜀(現在の四川省)へと逃れる。その途上の馬嵬で、楊国忠、息子の楊暄・楊出・楊曉・楊晞兄弟、楊貴妃も絞殺された。

 玄宗は退位し、皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位した。
安反乱軍は常に内紛を起こし、安禄山は息子慶緒に殺され、さらに史思明に殺害され権力は変わっていく。この反乱勢力の分裂は各地の叛乱を呼び起こす。しかし、一つの力にまとまらないものはやがて他国に援軍を求めた唐の国軍に制圧されることになる。



 ■ 安禄山の叛乱        755年 11月〜
 755年、11月、「逆賊・楊国忠を討て」と勅命を受けたと偽り、息子の安慶緒、高尚、厳荘、孫孝哲、阿史那承慶らと范陽で反乱を起こす。15万人の大軍を率いて夜半に洛陽への進軍する。太原、河北の諸郡は全て降伏させた。

12月、安禄山の軍は黄河を渡り、霊昌郡、陳留郡、螢陽郡を落として、洛陽を陥落させた。

叛乱軍の侵攻
 唐軍を率いて東進してきた高仙芝は封常清とともに潼関に退却した。玄宗はこれを退却罪とし処刑し、哥舒翰が潼関の守りに赴任させた。また、河北において、常山太守の顔杲卿と平原太守顔真卿が唐のために決起したため、叛乱軍は潼関攻撃を止め、河北へと引き返すところへ追いつめられた。そんな中で、安禄山は至徳元載(756年)正月、洛陽で雄武皇帝に即位し国号を燕とした。
 史思明と蔡希徳が常山を陥落させ、河北の奪還に成功した。しかし、唐側の郭子儀と李光弼によって、史思明が敗北し、さらに顔真卿が激しい抵抗を重ね、再び河北の情勢は危うくなる。再度、史思明が郭子儀と李光弼に敗北したことにより、河北の十数郡が唐に奪回される。南方も唐側の張巡らの活躍によって、配下の尹士奇や令狐潮の進軍を止められてしまう。

 苦境に立たされた安禄山であったが、唐側に内部抗争がおこる。
 潼関を守る哥舒翰と楊国忠が不仲となり、哥舒翰を無理に潼関から出撃させる。しかし、叛乱軍に全滅させられるのである。哥舒翰も降伏、監禁されることになる。

 潼関が落ちると、玄宗は長安を捨てて蜀の地へ逃亡し、途中で楊国忠は唐の兵士に殺される。孫孝哲、張通儒、安守忠、田乾真に長安、関中を治めさせた。陳希烈、張均、張汨らは叛乱軍に降伏し、王維は捕らえられ、洛陽に連行された。長安、洛陽は、大虐殺を行ったので長安洛陽での反抗反撃がなくなり略奪の限りを尽くし、悲惨な状況になる。潼関の勝利に甘んじて唐国軍をそれ以上追わなかった。

 唐側は態勢を立て直すのに成功した。関中の豪族たちが唐側についた。また、河北では顔真卿が抵抗を続け、南では張巡の守る雍丘を陥落できない状況が続いていた。
 唐の皇太子李亨が粛宗として、霊武で即位、郭子儀が軍を率いて加わったた。唐軍が勢力回復するかと思われたが、房官が敗れ、郭子儀と李光弼が山西に退き、史思明が河北で勝利し、顔真卿も平原を放棄し河南に逃げる。

 至徳2年(757年)正月、安慶緒は安禄山殺害しこの乱は安慶緒によって続けられる。さらに、安慶緒は史思明に殺され、引き継がれたために安史の乱と呼ばれるようになり、史思明の子・史朝義が殺される763年まで続いていくことになった。この後も、安禄山の旧領はその配下であった3人が節度使として任命され、「河北三鎮」として唐に反抗的な態度を続けることになる。


 ■ 叛乱の背景       

 

1.府兵制の崩壊
 府兵制は、農耕土着風習の中国人にとってはかなりの重い負担であった。
 1)玄宗期には均田制自体が行き詰まり、農民が納税できなくなってきたこと。
 2)唐の領土があまりにも大きくなってしまって、土着農民の感覚からいうと、あまりにも遠い辺境に防人として送られるようになってきて、帰れる保障もなくなってきたことなどから逃げだす者も増加し、兵が思うように集まらなくなる。
 3)府兵制では外敵の動きに対して機敏に対処することが難しく、唐政府は常備軍を欲するようになり、府兵に変わって行軍が主に使用されるようになる。
 4)辺境でもそれは同じであり、羈縻州に対して都護府が設置され、その下には募兵による行軍で構成された。儀鳳年間(676年 - 678年)に軍制の改革が行われ、軍鎮と呼ばれる組織が辺境防衛に当たることになる。しかしこの軍鎮の統制が難しくなり、各地方で強力に軍鎮を統制する節度使が登場することになる。
 5)そして辺境の兵士たちは府兵制に於ける3年間のような短い期間ではなく、6年あるいはそれ以上の時を辺境で過ごすようになる。
 6)更に737年に辺境の軍鎮に半永住する長征健児制が出来る。これらの兵士たちは全て募兵であり、生活を国家からの支給で賄う職業軍人であった。
 7)ここに至り、府兵制は完全に消滅した。

 2.藩鎮の台頭
 藩鎮(はんちん)は中国唐から北宋代まで存在した地方組織の名称である。節度使や観察使などを頂点とし、地方軍と地方財政を担い統治した。節度使そのものを指すことも多い。
 府兵制が行き詰まった背景としては、元になった北魏の兵制では兵の担い手が部族制の下で集団生活を行う牧畜民で
あったのに対して、唐の府兵制は定住して田を耕作する農民が兵を兼ねたため、年間3ヶ月の軍事訓練が与える農業へ
の負担が大きく、また郷里と家族から離れて任務に就いたため戦闘に弱かった点が挙げられる。また、辺境への赴任は
白居易の『新豊折臂翁』[1]に代表される兵役拒否も生み、負担に耐えかねて逃亡(逃戸)し本籍地を離れた土地で貴族
に囲われ奴婢となる良民もいた。節度使は駐屯軍の将軍とその地方の財政官を兼ね、任地の税収を軍の糧秣と兵士の
雇用に使う制度で、初めは異民族対策として西北方面を中心に10の節度使が設けられた。

710年の河西節度使の設置を初めとして十の節度使が設置された。駐屯する兵士は、徴兵制たる府兵制によって集められるのではなく、募兵制である長征健児制によった。兵士は辺境で屯田を行い、国家から給料として絹と銅銭を支給された。
@安西 (亀茲): 天山南路の防衛、西突厥   A北庭(庭州): 天山北路   B河西 (涼州): 吐蕃と突厥の連携阻止 C朔方 (霊州) :突厥 C河東 (太原): 突厥 D范陽 (幽州): 奚・契丹  E平盧 (営州): 室韋・靺鞨  F隴右 (鄭州): 吐蕃  G剣南 (成都): 吐蕃・吐谷渾  H嶺南五府経略使 (広州) 夷猿  I節度使は安西・北庭・平盧の長城外節度使とそれ以外の長城内節度使に分けられる。
 長城外節度使には武人や蕃将(異民族出身の将軍)が就けられ、長城内節度使には中央から派遣された文官が付くのが当初の方針であり、節度使は宰相へと登るためのエリートコースとされていた。しかし玄宗に重用された宰相李林甫は政敵の出現を恐れて、宰相になれない蕃将を積極的に節度使として登用した。安禄山も玄宗の寵愛を受け、742年に平盧節度使となり、更に范陽・河東を兼任した。

 3.宰相と宦官 朝廷の問題
  (1)国軍ある南衙禁軍(府兵制による軍)に対して、北衙禁軍は皇帝の親衛軍であった。府兵制の崩壊に伴う南衙禁軍の縮小に対して、北衙禁軍が拡充の一途を辿った事は、律令体制の崩壊過程に、禁裏による政治への影響が問題点となる。
 (2)宦官が勢力を握ったのは、単に事務処理の範囲に限られていたものが宰相と結託し、高級官僚になった。則天武后の700年前後に数人であったが50年の間、つまり、玄宗になって1000人を超えるものになっていた。科挙試験を経ないでのし上がれる陰湿な人間関係が蔓延した。高力氏に至っては皇帝に上がる書類はすべて下見をした。
 (3)宰相、将軍もこれを最大限利用している。
 (4)李林甫、楊国忠らによる長期腐敗政治
 (5)玄宗の奢侈、偏見政治
 王朝・君主制の成立要件は二つあり、ルール・秩序があること、政治的・軍事的に、経済的に均衡が保たれいることの上に君臨できるものである。玄宗の712年から40年は唐王朝の前100年の蓄積の上に成り立っていたのであり、これがすべてに崩壊しているのを是正することができなかった事が、安禄山の乱は起こした要因である。

  220厳武   222崔國輔     224荊叔   225常建




 218 王昌齢   698〜763    こうせき
218
王昌齢
天宝14年(755年)、安禄山の乱の時に官を辞して故郷に帰るが、刺史の閭丘暁に憎まれて殺された。後に閭丘暁は、安禄山軍の侵攻に対し、唐側の張巡を救援しなかった罪で、唐の張鎬に杖殺された。この時、閭丘暁は「親がいるので、命を助けて欲しい」と言ったが、張鎬は、「王昌齢の親は誰に養ってもらえばいいのか?」と反論し、閭丘暁は押し黙ったと伝えられる。
当時は「詩家の天子」とも呼ばれ、高適・王之渙と交遊があった。七言絶句に特に優れ、辺塞詩に佳作が多いとされる。


 219 高適   702頃〜765    こうせき
219
高適
蜀に乱を避けた玄宗に随行し、永王の軍を討伐平定したが、蜀が乱れるに及び蜀州・彭州の刺史となり、西川節度使となった。長安に帰って刑部侍郎・散騎常侍となり、代宗の時に渤海侯に封ぜられ、その地で没した。
50歳で初めて詩に志し、たちまち大詩人の名声を得て、1篇を吟ずるごとに好事家の伝えるところとなった。吐蕃との戦いに従事したので辺塞詩も多い。詩風は「高古豪壮」とされる。李林甫に忌まれて蜀に左遷されて?州を通ったときに李白・杜甫と会い、悲歌慷慨したことがある。しかし、その李林甫に捧げた詩も残されており、「好んで天下の治乱を談ずれども、事において切ならず」と評された


 223 裴迪   生没年不詳     はいてき

裴迪
関中の出身。もう川において、王維と特に交友があった。「もう川集」には、王維の詩に続けて、彼の詩も載せている。また、杜甫とも交友があったことは杜甫の成都の詩にあるように蜀州刺史、もしくは尚書郎に任じられた。安史の乱期に、粛宗もとに駆けつけた事で官職をえた王維の影響を受けた詩人のひとりである。



 233 顔真卿   709〜785     がんしんけい

顔真卿(がん しんけい、 709年(景龍3年) - 785年(貞元元年))は、字は清臣、中国唐代の屈指の忠臣であり代表的な書家でもある。737年(開元25年)に進士及第し、742年(天宝元年)に文詞秀逸科に挙げられ、監察御史に昇進し、内外の諸官を歴任した。ただ、生来が剛直な性質であったが為に、権臣の楊国忠に疎んじられ、753年(天宝12載)に山東省左遷。

 安禄山の反乱軍の勢いが熾烈を極めた11月半ば、河北や山東の各地がその勢力下に帰属する中にあって、平原郡(山東省徳県)の太守に降格されていた顔真卿は、従兄で常山郡(河北省正定県)の太守であった顔杲卿と呼応して、安禄山軍侵攻をとどめた。その後、756年(至徳元載)に平原城を捨て、鳳翔県(陝西省)に避難中であった粛宗の許に馳せ参じて、憲部尚書(刑部尚書)に任じられ、御史大夫をも加えられた。
しかし、長安に帰った後、再度、宦官勢力や宰相により、前線に送られ、そこで捕えられた。叛乱軍の李希烈は真卿を自らの部下にしようと再三説得したが顔真卿は拒み続けた。757唐国軍長安奪回に伴い李希烈は自殺刑された。後世、顔真卿の忠臣はその典型例として、靖献遺言に取り上げられている。顔真卿は尚書次官クラスでおわる。

 301 張謂   711 〜 780年頃     ちょうい

301張謂
張謂(ちょう い、711年? - ?)は、中国・唐の詩人。河内(河南省沁陽市)の出身。字は正言。初めは嵩山にこもって読書し、大志を抱いていた。天宝2年(743年)、進士に及第、節度使の幕下に加わって西域に従軍した。大暦初年(770年頃)には潭州(湖南省長沙市)刺史となり、大暦7年(772年)には礼部侍郎に至って、科挙の試験を司った。


 230 岑参   715 〜 770頃     しんじん

岑参(しん しん、715年 - 770年)は中国唐代の詩人。岑嘉州とも称する。詩人・高適と並び称される。
河南省南陽の出身。744年の進士。
 長く節度使の幕僚として西域にあったが、安禄山の乱があった756年に粛宗がいた鳳翔にはせ参じて、杜甫らの推挙により右補闕となり、その10月には粛宗に従って長安に赴く。759年に醵州の刺史となり、762年に太子中充・殿中侍御史となり関西節度判官を兼ね、765年に嘉州の刺史となった。768年、官を辞して故郷に帰ろうとしたが途中で反乱軍に阻まれて成都にとどまり、その地で没する。享年56。



 217 儲光義   707 〜 760年頃     ちょこうぎ

(ちょ こうぎ、707年 - 760年?)は中国唐代の詩人。
山東省・?州の出身。726年に進士となり、756年に監察御史となる。安禄山の乱の時に賊軍に官を授けられたため、乱後は嶺南に流され、その地で没する。
その詩は陶淵明を模範とし、質朴・古雅の趣をふくみ、田園詩に長じ王維・孟浩然・韋応物と肩を並べた。著に『儲光羲詩集』5巻の他、『正論・九経分義疎』があり、『唐詩選』に洛陽道などの絶句4首を収めている。



 231 賈 至   718 〜 772年       かし

(か し、718年 - 772年)は、中国・唐の詩人。洛陽(河南省)の出身。字は幼幾(ようき)。一説には幼隣(ようりん)。賈曾の子。
開元23年(735年)に進士に及第、さらに天宝10戴(751年)、明経(めいけい)に及第、起居舎人・知制誥に至った。安禄山の乱のときには、玄宗に従って蜀へ避難し、帝位を皇太子に譲る勅語を起草した。その後、一時罪によって岳州(湖南省岳陽)に流され、そこで李白に会い、酒宴に日を送ったこともある。その落ち、都に召還され、大暦5年(770年)には京兆尹兼御史大夫となり、右散騎常侍に至った。




 ■ タラス河畔の戦い        751年 7月-8月
タラス河畔の戦い
 唐の高仙之が大敗を喫したのであるが、この大敗前、タラス城に凱旋入場まで、高仙之は吐蕃を破り、この地にあった小国約30国をすべて破り、連戦勝利していた。(安史の乱前のアジアの勢力図参照))しかし、それを維持していく部隊編成はなく伸びきった軍隊は逆に孤立していくことになる。その背景には、吐蕃、キルギス、アッバース王朝の連合が成立していた。この連合を成立させたのは唐王朝の連戦連勝による略奪、横暴にある。侵略者に対する反逆は侵略者の地元に対する政策で違ってくる。高仙芝、率いる唐の3万人の軍は局地戦で、全面対決でも敗れた。命からがら逃げかえった兵は数千人まで減っていた。完全敗北である。
この戦いは単にイスラムとの戦いに敗れたということだけではない。唐の財政に貢献していた@西方からの税、Aシルクロード交易、が絶たれることを意味する。B唐の権威は地に落ち外敵からの侵略は漢の国土に及ぶようにある。

751年7月-8月
 中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で唐とアッバース朝の間で行われた戦闘。
 安西節度使として西域(東トルキスタン)に駐屯していた唐の将軍高仙芝が西のソグディアナ(西トルキスタン)に圧力をかけたため、シャーシュ(石国、現在のタシュケント)の王子は、シル川以西を支配するイスラム勢力に支援を要請。これに応じて747年にウマイヤ朝勢力をメルヴから追ってアッバース朝のホラーサーン総督となっていたアブー・ムスリムは、部下のズィヤード・イブン=サーリフを派遣。漢人・土着からなる3万の唐軍は、高仙芝に率いられタラス城に入る。
 ズィヤードの率いるアッバース朝軍と高仙芝率いる唐軍は、天山山脈西北麓のタラス河畔で衝突した。
 戦いの最中に唐軍に加わっていた天山北麓に遊牧する遊牧民カルルクがアッバース朝軍に寝返ったために唐軍は壊滅し数千人を残すところとなり、高仙芝は配下の李嗣業がフェルガーナの軍を斬り破ったため、逃げ延びたものの、二万人を超える多くの兵士が捕虜となった。
 この戦い以降、中央アジアにイスラム勢力の安定支配が確立し、ソグド人やテュルク系諸民族の間にイスラム教が広まっていった。唐の勢力はタリム盆地に限定されることとなり、まもなく起こった安史の乱により、唐の中央アジア支配後退は決定的になった。
 中国人の捕虜の中に製紙職人がいたとされ、サマルカンドに製紙工場が開かれてイスラム世界に製紙法が伝わった。
 そして、この戦いの大敗は豊かなように見えた唐経済を弱体化させることになり、安禄山の叛乱の引き金になるものである。李林逋の絶頂期であった。(この翌年病死)


 ■ 高仙之        生年不詳〜755年 こうせんし

 高仙芝(こう せんし ? - 天宝14載(755年))は、高句麗系の唐の軍人。西域で活躍し、タラス河畔の戦いでアッバース朝のイスラム軍と交戦した。
 高仙士の「その時」]であるが、755年安禄山が反乱を起こし、栄王・李椀ら(玄宗の皇子)が討伐軍の元帥に、高仙芝が副元帥に任じられている。高仙芝は飛騎、礦騎などの軍に募兵を加えた、総勢数十万といわれる天武軍を率い、すでに討伐軍の将に任じられていた封常清に続くことになった。
 陜郡まで来たところで、安禄山側に洛陽を奪われて敗走してきた封常清と会う。そこで、封常清の進言に従い、潼関まで退くことを決める。太原倉を開いて全て兵士に渡し、残りを焼いて退却した。潼関への退却はひとまず成功し、安禄山軍は撤退した。その時、勢いづいている安禄山軍の猛攻で、唐軍は多くの兵が離散し、大虐殺、大量の武器、鎧、兵糧が放棄され、代償は大きかった。。

 しかし、再び監軍となっていた辺令誠が口出しするのを無視したため、封常清とともに、玄宗に対する讒言を受けてしまったと言われる。玄宗は両名に対する処刑命令を辺令誠に下した。
 洛陽の敗北により、封常清が処刑され、高仙芝も戻ってきたところを捕らえられた。高仙芝は「退却したのが罪なら、死も辞さないが、資財、兵糧を盗んだというならば冤罪だ」と言い、配下に向かって「私に罪があるなら、うち明けるがよい。そうでなければ『枉』(冤罪)と叫べ」と呼びかけると、軍中からの「枉!」という叫びが大地を揺るがした。封常清の死体に「君は私が抜擢し、私に代わって節度となった。今度は君と同じ所で死ぬ。天命なのだな!」と語り、処刑された。

将軍・李承光が代わりに指揮したが、新たに副元帥に任じられた哥舒翰は潼関の守備に失敗し、玄宗は長安を出奔する結果となった。








    張 均     生没年不詳       ちょうきん



張均(ちょう・きん、生没年不詳)は、唐代玄宗朝に仕えた政治家。名宰相とされる張説の長子であるが、安史の乱の際、安禄山に仕え、宰相に取り立てられたため、配流された。弟に張?、張?がいる。
文章詩句に長けていた。太子通事舍人から郎中、中書舍人にまで昇進した。開元17年(729年)には、左丞相である父の張説から京官(長安にいる官僚)の査定評価で「上の下」の評価をもらった。しかし、当時の人々は不公平とは考えなかったと伝えられる。
開元18年(730年)の父の死後、燕国公を襲名する。戸部侍郎、兵部侍郎を歴任するが、連座の罪により、饒州、蘇州の刺史に左遷される。長年かかって、また兵部侍郎に復帰した。自らを宰相の才と自負していたが、李林甫によって妨害されていたと伝えられる。天宝9載(750年)、刑部尚書となる。
天宝11載(752年)、李林甫の死後、陳希烈を頼り、昇進の道を歩もうとしたが、楊国忠によって陳希烈は解任される。さらに、弟の張?の罪に連座し、建安太守に左遷させられる。長安に戻った後、大理卿となるが、常に鬱々とした状態であったと伝えられる。天宝14載(755年)、安史の乱が勃発し、至徳元載(756年)、長安陥落時に安禄山に降伏し、中書令に任命された。[1]
至徳2載(757年)、唐軍の洛陽奪回時に陳希烈、張?、達奚cとともに、唐軍に降伏した。皆、死罪にあたった。しかし、房?が「張説の家が滅亡してしまう」と主張し苗晋卿に会い、取りなしを依頼した。粛宗は、張説に自分の誕生の時に助けられたことがあったため、張均の死罪を免じ、合浦に配流した。
建中初年に、太子少傅が贈られ、息子の張濛は徳宗に仕え、中書舍人に任じられた。


    達奚c  生年不詳 〜 757年    たつけいじゅん
x達奚c

達奚c(たつけい・じゅん、生年不詳 - 至徳2載(757年))は唐代玄宗朝の官僚。安史の乱に際し、洛陽を守ったが、降伏して安禄山に仕え、宰相に任じられた。唐の洛陽奪還の際、唐に降伏したが、処刑された。
河南の出身。開元年間の初期に、河南河北宣撫使の陸餘慶によって推薦され、名士として知られた。後に、天宝11載 752年)頃、礼部侍郎として、宰相の楊国忠の子である楊暄の科挙明経の不合格を息子の達奚撫を通じて伝えたところ、楊国忠の怒りを買い、楊暄を上位で合格させたことが「新唐書」に記されている。なお、楊暄はすぐに達奚cと同列となった。
天宝14載(755年)、河南尹として洛陽に赴任しており、安禄山が馬三千匹を六千の兵に持たせ、献上すると上奏した時、変事が起こることを心配し、止めることを上奏し、玄宗に採用された。同年、安史の乱が勃発し、封常清の配下として、李?、盧奕とともに洛陽の防御にあたった。しかし、攻めてきた安禄山軍によって、洛陽は陥落。封常清は敗走し、李?、盧奕、蒋清は処刑されたが、達奚cは安禄山に降伏した。
至徳元載(756年)、洛陽にて、大燕皇帝を自称した安禄山によって、侍中に任命される。至徳2載(757年)、安禄山の死後、引き続き、その子・安慶緒に、陳希烈、張均、張?らとともに仕えた。唐側が安慶緒に勝利し、安慶緒が洛陽から逃亡した時に、粛宗に降伏した。罪は斬刑にあたり、韋恆ら10名とともに腰斬された。

x陳希烈
    陳希烈     生年不詳〜757年   ちんきれつ 

陳希烈(ちん・きれつ、生年不詳 - 至徳2載(757年))は唐代玄宗朝の政治家。宰相にまで任じられたが、安史の乱において安禄山側に降伏し、粛宗に自殺を命じられた。

宋州の出身。玄学(道教の学問)に詳しく、書は読んだこともなかった。開元年間に玄宗に玄学を講義し、秘書少監となった。開元19年(731年)には、張九齢に代って集賢院学士となり、工部侍郎まで昇進した。玄宗が撰述した書物は全て陳希烈によるものであった。天宝元年(742年)、符応にかこつけて玄宗に取り入り、崇玄館大学士となった。
天宝5載(746年)、李林甫は彼が玄宗の信任が厚く、柔和で御しやすいので宰相に引き立てた。陳希烈は李林甫の政策や謀略にただ同調し、署名するだけであったという。兵部尚書と左相を兼ねた。
天宝11載(752年)には楊国忠に同調し、王ヘの排除や李林甫との対立に協力する。李林甫の死後、天宝12載(753年)、楊国忠とともに李林甫への誣告を行い、許国公に任じられた。しかし、楊国忠が韋見素を引き立てて陳希烈を宰相から外し、太子太師にしたために恨みに思っていた。
そのため、天宝14載(755年)の安史の乱が勃発後、至徳元載(756年)の長安陥落時に、張均、張?、達奚cらとともに安禄山に降伏し、宰相に任じられた。
至徳2載(757年)、広平王・李俶や郭子儀ら唐側が安慶緒に勝利し、安慶緒が逃亡した時に、洛陽にいた燕(安禄山の王朝)側の百官を率いて素服で降伏し罪を請うた。罪は斬刑にあたったが、玄宗から寵愛されていたことにより自殺を命じられた。


    陳希烈     生年不詳〜757年   ちんきれつ 

楊国忠
唐の政権を握り、四十を超える使職を兼ね、自分につかない官僚は地方に出し、年功序列で出世させることで衆望を得て、人事を全て自分で決めた。天宝12載(753年)には、死去した李林甫を謀反の罪で誣告し、李林甫の親類や党を組んだものは流罪となった。その後、自らの権力集中に努め、天下の特に優れた才能を集めた。

宿敵・安禄山 [編集]この頃から安禄山との対立を強め、哥舒翰と手を組み、叛意ありとして排撃を強めはじめた。天宝13載(754年は、安禄山は楊国忠の意に反して上京し、玄宗に釈明をし、玄宗は安禄山を宰相に任命しようとしたが楊国忠の反対により沙汰止みとなった。さらに、吉温が安禄山につき、対立は深まり、安禄山は長安を脱出するように范楊へと帰った。

剣南留後・李?が南詔に大敗し、瘴癘(しょうれい)の地あったことも加わって、全滅し、李?も捕らえられた。楊国忠は敗北を隠し、さらに討伐軍を出し、死者は鮮于仲通の時と合わせて、20万人近くに及んだ。

天宝14載(755年)楊国忠は、吉温を合蒲に流すなど、敵対行動を止めなかった。安禄山は楊国忠に対して不満と敵意を抱き、ついに、謀反の意志を固め、安史の乱が勃発し、安禄山は楊国忠の排除を名目に武装蜂起した。楊国忠は得意げに、「安禄山の首は十日以内に届けられるでしょう」と語ったという。

しかし、洛陽が陥落し、討伐軍の指揮官である高仙芝と封常清は潼関まで退却したために処刑され、哥舒翰が潼関の唐軍を指揮することとなった。

至徳元載(756年)、哥舒翰は、戸部尚書で安禄山のいとこでもある安思順と楊国忠の腹心・杜乾運を謀殺した。また、謀反の責任は楊国忠にあるという世論の高まりもあり、両者は対立し、楊国忠は玄宗をたきつけ哥舒翰に出撃を強いた。哥舒翰は安禄山の軍に大敗し捕らえられ、潼関は陥落した。

栄光の末 [編集]楊国忠は剣南節度使を兼ねていたため、蜀地方への出奔を提言。この時、「安禄山の謀反の兆しを陛下が信じなかったからであり、宰相の責任ではない」と広言したと言われる。玄宗も同意し、太子・李亨、楊貴妃、楊一族、宦官の李輔国、高力士、韋見素、魏方進、陳玄礼らを連れ、密かに西方へと出発した。

馬嵬(ばかい)駅(陝西省興平市)に着いたところで、将士の疲労と飢餓は極限に達して前進を拒否。楊国忠への誅殺を決意した、龍武大将軍の陳玄礼は、李輔国を通して太子・李亨に決断をうながしたが、まだ、下らなかった。しかし、陳玄礼は「今天下崩離,萬乘震盪,豈不為楊國忠割??庶、朝野怨尤,以至此耶? 若不誅之以謝天下,何以塞四海之怨憤!」(今日、天下は崩れ落ち、天子の地位は揺らいでいる。楊国忠のために亡民は苦しみ、朝野に怨嗟が渦巻いているのではないか。もしこれを誅せずに天下に謝すれば、どのように四海の恨みと憤りを抑えられようか!)と述べた。たまたま、楊国忠が吐蕃の使者と会話していたため、兵士が「楊国忠が蛮人と謀反を起こそうとしているぞ!」と叫び、襲いかかり、西門内に逃げ入った楊国忠は、殺され、首は槍先に刺された。

御史大夫の魏方進は「なぜ、宰相を殺したのだ」と兵士をとがめたために殺され、楊国忠の子・楊暄、韓国夫人(?国夫人・楊貴妃の姉)も殺された。さらに兵士らは玄宗に迫って、楊貴妃の処刑も要求し、高力士の説得により、玄宗は泣く泣く楊貴妃を縊死させたという。楊国忠の残りの子も全て、前後して殺されている。



 ■ 安慶緒     生年不詳〜759年   あんけいしょ

安慶緒 生年不詳〜759 あんけいしょ
中国唐の軍人で、のち燕の第2代皇帝となった。

安禄山(聖武皇帝)の皇太子であったが、父帝が洛陽で病を患い、視力を失って人間不信に陥り、奢侈にもふけるようになってから孝を失った。父帝が慶緒の廃嫡にまで言及し始めたので、757年1月、唐軍とのにらみ合いが続く中で側近とともに父帝を殺害し、帝位を簒奪。しかし人望のない慶緒に、家臣の忠誠を繋ぎとめる事はもはや出来なかった。

757年10月、唐の粛宗に派遣された郭子儀らと回鶻の連合軍に長安と燕の都城・洛陽を奪われ、黄河を渡り業城(現在の河南省安陽市)に逃亡する。759年3月、有力部将・史思明の援軍によって唐の大軍勢を撃退したが、間もなく自身も彼に殺害された。

その後、史思明は安慶緒の軍勢を引継ぎ、本拠地・范陽(現在の河北省保定市や北京市一帯)に戻し、大燕皇帝を称するようになる。



 ■ 史思明     703 〜 761年    ししめい

史 思明  703 〜 761年  し しめい
唐中期の大規模な反乱であった安史の乱の指導者。

安禄山と同郷だったため親しい仲にあったという。また、自身も6ヶ国語に通じた教養に通じる人物であったため、次第に頭角を現していく。幽州節度使の部下であったときに戦功を挙げ、752年には安禄山の配下となった。

756年に安禄山が反乱を起こすと、河北で軍を率いて戦い、李光弼や顔真卿率いる唐軍と戦った。しかし、757年に安禄山が息子の安慶緒に殺されると安禄山の後を継いで燕王を称し、759年には安慶緒を殺害し、さらには長安に迫る勢いを見せたが、761年、養子を後継ぎにしようとしたために実子の史朝義によって殺された。

その後、史朝義も同年のうちに自殺したため、安史の乱は終息することとなった。




 ■ 高力士     684 〜 762年     こうせんし

中国唐代の宦官。唐の第6代皇帝玄宗の腹心として仕え、権勢を振るった。

安史の乱の際、玄宗について都の長安を脱出した。途中に禁軍が楊国忠を殺し、楊貴妃の死を求めたときに玄宗を説得し、楊貴妃を縊死させた。その後、蜀の地の成都まで同行して斉国公に封じられた。

しかし、粛宗(李亨、元の名を李?)が即位して玄宗は上皇として長安に帰還した。上元元年(760年)に、李輔国(粛宗期の実力者)が軍隊をもって玄宗を捕らえようとした時は、李輔国を叱りとばしてその危機を救ったが、陥れられて巫州に流された。宝応元年(762年)恩赦により帰還中、朗州にて玄宗の死を知り慟哭し死去した。

698年  少年時代に去勢しており、「力士」と名付けられた上で、「金剛」という名と少年とともに、嶺南討撃使の李千里により武則天に献上される。彼らはさとく、また容貌が整っていたので、武則天に喜ばれ、給事として左右に置かれた。

 武則天の時代、小さな過失から宮廷から追放され、宦官の高延福の養子となり、以降は高姓を名乗る。高延福が武三思の屋敷の出身であることから、武三思と交流を持つこととなった。1年ほどして、再び武則天に宮中に召された。身長は当時で6尺5寸あり、勤勉かつ綿密で、詔敕をうまく伝達し、宮韋丞に任命された。 その後、景龍年間に皇子時代の李隆基と結び、恩顧をもって接した。そのため、景龍4載(710年)の韋后討伐の政変の際は内部から協力し、朝散大夫、内給事に任じられた。玄宗の即位後も先天2年(713年)太平公主派の鎮圧に荷担し、その時の功績で銀青光祿大夫、行内侍同正員に任じられ、開元年間に入って右監門衛将軍、知内侍省事に昇進した。内外の様々なことを任され、高力士を含めた宦官の権勢は大きなものとなった。

 その後も玄宗の内廷の臣として、各地から来た上奏文は全て高力士が読んでから玄宗に進められ、小さいことは自分で決裁した。宮中から家に帰ることもほとんどなく、宮殿で睡眠をとっていた。玄宗は「高力士がいるからこそ、安心して眠れる」と語っていた。
玄宗の腹心として公事のみならず私事にも相談役として仕え、開元14年(726年)に張説が宇文融に弾劾されたときは、これがためにとりなした。
730年 、政敵であり、その傲慢さにより多くの問題を引き起こしていた王毛仲の排除を玄宗に進言した。開元19年(731年)に王毛仲は左遷され、その上で自殺を命じられている。なお、宇文融、李林甫、李適之、蓋嘉運、韋堅、楊慎矜、王ヘ、楊国忠、安禄山、安思順、高仙芝らは、高力士と結んだことにより才覚が認められ、高位に抜擢された。
738年  皇太子李瑛の廃嫡及び死後、新たな皇太子選出に迷う玄宗に対して、李瑁を推薦する宰相李林甫に反して、年長の李?を勧め、李?が皇太子となった。天宝初期に冠軍大将軍・右監門衛大将軍・渤海郡公となった。この頃、天下の事を李林甫に託して、導引の道に入ろうとする玄宗を諫めて怒りを買い、陳謝の上で自宅に帰ることとなった。天宝7載(748年)には驃騎大将軍に任命され、数え切れないほどの富を蓄えていたという。しかし温厚、勤勉で過失が少なく、驕ることもなかったので、玄宗から変わらず信任を受け、士大夫からも嫌われることはなかった。天宝11載(752年)、王ヘの弟・王?と刑縡が乱を起こそうとした時は、禁軍400人を率い、刑縡を斬っている。また、楊国忠の専横について、玄宗を諫めたこともあった。
安禄山が不穏な動きを始めた後も、朝廷と彼との調停役として活動している。

 はじめに安禄山の叛乱叛乱の背景●どうして長期に及んだのか
3.その時 皇帝  玄宗    粛宗  タラス河畔の戦い
官僚1  高仙芝  郭子儀  李光弼   顔真卿  哥舒翰
官僚2  李輔国   高力士  楊国忠
詩人  王昌齢 高適   裴迪 張謂 賈至 岑参 儲光羲
 詩人の安史の乱(対比表) 王維 李白   杜甫
叛乱軍
寝返  張均   張汨   陳希烈  達奚c
参加  安禄山  安慶緒  史思明