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h北宋の詩人 |
601 | 林逋 (りんぽ) | 967年 - 1028年 | |
宋代の詩人。字は君復。 杭州銭塘(浙江省)の出身。若くして父を失い、刻苦して独学する。恬淡な性格で衣食の不足もいっこうに気にとめず、西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ。真宗はその名を聞いて粟帛を賜い、役人に時折見回るよう命じた。薛映・李及が杭州にいたときは彼らと終日政談し、妻子をもたず、庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。行書が巧みで画も描いたが、詩を最も得意とした。一生仕えず盧のそばに墓を造り、「司馬相如のように封禪の書を遺稿として用意してはいない | 山園小梅 | ||
602 | 蘇舜欽(そ しゅんきん) | 1008- 1048 | |
蘇舜欽(そ しゅんきん、1008年 -1048年)は北宋時代の政治家・文学者。字は子美。銅山(河北省)の出身。参知政事であった蘇易簡の孫でもある。若い頃から世を慷慨し、軍事論を好み大志があった。初めは父の推挙により太廟齋郎に任命され、景祐年間(1034年- 1038年)に進士に合格し、知長垣県をへて大理評事となった。康定年間(1040年 -1041年)、河東に地震があったときに蘇舜欽は上疏し当時の政治の欠陥を論じて范仲淹に認められ、集賢校理となり進奏院を監督し、時の宰相・杜衍の娘を娶るまでになった。多くの学者が修飾の多い美文を書いていた中で、河南の穆修とともに古体による詩を書き、欧陽修の賞賛を得た。草書にも優れていたという。 | |||
603 | 柳永 | 987〜1053 | |
崇安(福建)出身。字は耆卿、原名は三変。景祐元年(1034)の進士で、屯田員外郎となった。詞の作者として当時から著名で、艶詞が多く鄙俗と評されるが、叙情に優れ、従来の短篇詞主体に対して長篇詞を好み、詞史に新生面を与えた。 | 八聲甘州 | ||
604 | 晏殊 | 991〜1055 | |
撫州臨川(江西)の出身。字は同叔。景徳初期の進士で、真宗・仁宗に仕えて軍事・財政改革を進め、1040年に宰相とされた。学校再興など人材育成にもつとめ、門下からは范仲淹らを輩出し、韓g・富弼らを推挙した。文章に優れ、詞の大家としても知られた。 | 浣溪沙 | ||
605 | 欧陽脩 (おうようしゅう) B | 1007〜1072 | |
廬陵(江西)出身。字は永叔、諡号は文忠。苦学して進士に第一甲で及第し、1043年に知諫院とされ、この時に『朋党論』を著した。以後、同修起居注・知制誥と累進したが、杜衍・韓g・范仲淹・富弼らの左遷を極諫した為に地方に出され、12年後に翰林学士に復した。1060年に地方官から枢密副使に復して参知政事に進み、濮議では台諫側の司馬光らと対立した。 史学に通じ、神宗期に新法に反対して致仕を許されると潁州に隠棲し、六一居士と称して『新唐書』『新五代史』を著した。周・漢以後の金石文を注解した『集古録』を著して金石学の祖とされ、又た韓愈の文章を高く評価して古文復興にも尽くした。唐宋八大家の1人とされる。 |
日本刀歌 ;蝶戀花 |
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606 | 曾鞏 F | 1019〜1083 | |
建昌南豊(江西)の出身。字は子固、号は南豊先生。太学時代に欧陽脩に認められ、嘉祐2年(1057)に進士に及第すると実録編纂官などを務めた後、地方官を歴任した。王安石と親交があったが、新法実施には反対し、1082年に中書舎人となった。唐宋八大家の1人。 | 虞美人草 西樓 | ||
607 | 司馬光 | 1019〜1086 | |
司馬光 1019〜1086 陝州夏県(山西)の出身。字は君実。宝元元年(1038)の進士で、濮議では名分を重んじて皇伯論を主張した。神宗が即位すると翰林学士・御史中丞となったが、新法に反対して地方に転出し、後に勅命で『資治通鑑』を編集した。哲宗が即位すると皇太后の庇護を得て尚書左僕射に復し、すべての新法を廃して社会を混乱させた末、在任8ヶ月で病死して温国公を追贈された。後に元佑党人として官位を剥奪され、北宋末に名誉が回復された。 |
居洛初夏作 | ||
608 | 王安石 G | 1021〜1086 | |
撫州臨江(江西)の出身。字は介甫、号は半山。慶暦2年(1042)の進士。主に地方官を歴任して治績を挙げ、いちじ中央に召されて仁宗に“万言書”を上呈したが、狷介さを忌まれて用いられなかった。神宗が即位すると知江寧府とされ、治績を認められて翰林学士をへて1069年に参知政事とされ、制置三司条令司を新設し、新法を逐次実施して翌年には同平章事とされた。 新法は主に中・下級の農民や商人を庇護して経済力の再建を図るもので、財政・治安に実績を挙げたが、国制を根本から再編する政策であったため、既得権を侵された地主・豪 |
泊船瓜洲 鍾山即事 夏日即事 桂枝香 |
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609 | 蘇洵(そじゅん) C | 1009〜1066 | |
眉州眉山(四川)の出身。字は明允、号は老泉。晩学で科挙には失敗したが、読書に励んで論文を著し、欧陽脩に認められて諸文士と交流した。議論文を得意とし、『太常因革礼』編纂に参加し、完成直後に歿した。唐宋八大家の1人。 | |||
610 | 富弼(ふひつ) | 未詳〜1083 | |
611 | 蘇軾(蘇東坡) D | 1036〜1101 | |
眉州眉山の出身。字は子膽、号は東坡。蘇洵の子、蘇轍の兄。嘉祐2年(1057)の進士。夙に将来を嘱望され、英宗期に判登聞鼓院、直史館とされたが、神宗期に新法に猛反対して杭州通判など地方官を歴任し、1079年には詩文中で時政を誹謗したとして黄州に配流された。元佑年間には翰林学士・侍読とされ、募役法の廃止に反対して知杭州に転出し、1092年に礼部尚書に復したが、紹聖以降は恵州ついで瓊州(海南島)に流され、常州で客死した。 文人としても著名で、父・弟とともに“三蘇”と称され、“大蘇”とも呼ばれた。線の太い詩は宋代文学の最高峰とされ、『赤壁賦』は黄州配流時に創られた傑作。唐宋八大家の1人。 |
念奴嬌 江城子 春夜 澄邁驛通潮閣二首 飮湖上初晴後雨 六月二十七日望湖樓醉書 和陶飮酒 題西林壁 江城子 浣溪沙 水調歌頭 | ||
612 | 蘇轍 E | 1039〜1112 | |
字は子由、号は潁浜。蘇軾の弟。嘉祐2年(1057)の進士。新法の実施時には三司条令司の書記とされたが、青苗法に反対して河南推官に遷され、蘇軾に連坐して南方に流された。元佑年間に右司諫から吏部尚書、門下侍郎と進んで新法派を排斥したが、紹聖以降は広南に左遷され、後に河南許州に隠棲した。兄に劣らぬ直言家だったが、旧法派の主流とは距離を措いて部分的に新法を認め、役法・西夏対策などにも見識を有した。文人としても兄と並んで知られ、“小蘇”と呼ばれた。唐宋八大家の1人。 | 李公麟山荘図 | ||
613 | 宋江 | 生没年不詳 | |
宋 江(そう こう、SòngJi?ng、生没年不詳)は、北宋末の1121年に現在の山東省近辺で反乱を起こした人物。また、その反乱事件に取材した小説で中国の四大奇書の一つである『水滸伝』では主人公となっている。 | 西江月 | ||
614 | 李師師 | 生没年不詳 | |
615 | 孫覿(そんてき) | 1081〜1169年 | |
北宋時代(960〜1127)に活躍。幼くして蘇軾に才能を見出されたといわれる。 | 再宿楓橋 | ||
616 | 張元幹 | 1091〜不明 | |
両宋期の豪放な作風の詞人(1091年〜不明)字は仲宗、号は葦川居士。長楽(現福建内)の人。対金主戦論者で、媾和に反対し、やがて退けられる。 | 石州慢 |