李白45 元丹丘歌
李白45 元丹丘歌(李白と道教(1))
元丹丘は李白が30歳前後に交際していた道士のひとり。李白はこの人物の詩を12編も書いているとおり、心から信服していたようだ。頴川は河南省を流れる川、元丹丘はこの川のほとりに別荘をもっていた、嵩岑は嵩山のこと、五岳のひとつで神聖な山とされた。
元丹丘歌
元丹丘 愛神仙。
朝飲頴川之清流、暮還嵩岑之紫煙。
三十六峰長周旋。
長周旋 躡星虹。
身騎飛龍耳生風、横河跨海与天通。
我知爾遊心無窮。
元丹丘は、神仙を愛す。
朝には頴川の清流を飲み、暮には嵩山のもやの中へと帰っていく。
嵩山の三十六峰を常に巡回している。
いつも巡回しては、星や虹を踏んで歩く、またその身は飛龍に乗って耳を風になびかせ、黄河を横断し東海をまたいで天に通ずる、私には君の果てしない心がよく分っている
韻 仙、煙、旋。/ 虹、通、窮。
元丹丘の歌
元丹丘(げんたんきゅう) 神仙(しんせん)を愛す
朝(あした)には頴川(えいせん)の清流を飲み
暮(くれ)には嵩岑(すうしん)の紫煙(しえん)に還る
三十六峰 長く周旋(しゅうせん)す
長く周旋し 星虹(せいこう)を躡(ふ)む
身は飛龍(ひりゅう)に騎(の)って耳は風を生じ
河(か)を横ぎり海を跨(また)げて天と通ず
我れ知る 爾(なんじ)の遊心窮(きわま)り無きを
李白は秋まで宋州に滞在したようですが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹丘の山居に滞在します。元丹丘は安陸以来の友人で道士ですが、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようです。
この元丹邱と李白の関係、李白の詩に多大な影響を与えた道教についてみていかないと理解はできない。直接、詩題に挙げたのは十二種、詩の中で名前を挙げているのが五首もある。そして、道教に関連した詩はたくさんある。道教の修行の丹という名がついていることから、一定以上の地位の人物であったのだろう。もう一つは唐の時代で儒教、仏教、道教とあったが最も大切にされたのが道教なのだ。事実、この時代道教はもっとも隆盛な時を迎えている。太宗、武則天と道教を国宗として進め、725年11月、玄宗、泰山に封禅の礼を行うことで、最盛期を迎えたのだ。李白はこの時24歳、これに触発されるように蜀を発したのである。それ以降、道教の盛んな各地を回っている。
これらから李白と道教との関係は実に深いように感じられ、その関係をのべなければ、李白の詩を深めることがせきない。(数々の謎は実は道教に傾倒していることから生じたもの!?と思っている。)
彼の詩が賀知章をして「謫仙」と呼ばせたのも当然であるが、これがまた儒教的な杜甫の詩と好対照であり、隆盛により圧倒していたことから下降いていくにともない、そのため後の儒教、仏教から批評、特に宋代の詩人学者から、李白の詩を杜甫の詩の下に置こうとする傾向が起っている。藝術上問題のみならず、彼の生活に多大の影響を及ぼしているこの道教と李白との関係を、「元丹邱の歌」を契機にブログを進めていこうと思う。
ただ、日本では、この元丹邱と李白の関係について紹介している事例が少なくマイナーであり、面白くないかもしれない。しかし、マイナーなところを取り上げていくことが漢文委員会の役割と考えている。
李白と杜甫の交友で、杜甫は李白を尊敬してやまないが、李白は普通の付き合いとしか思えない行動を示している。これは、杜甫が儒教を基本に仏教も勉強し尊重しているからであろう。したがって、あっさり別れているし、一旦別れると、その後の接触を断っている。
また、長安で、いろんな人との触れ合いがある中、詩人として抜きんでていた王維との接点がないのも、おかしい。李白は、任侠に足を染めた過去が原因というより、道教的な考えで遭遇の機会すら得ようとしなかったのではなかろうか。この時、王維も李白も、同時期、長安洛陽にいた形跡があり接触してもおかしくはなかったが、そうならなかったのは、対比表作成しても何から何まで、正反対の王維と李白であったためであろう。
科挙の試験を受けなかった李白が、道教の付き合いから念願の朝廷から招致されるのである。李白の長期計画の成功を見るのである。
こうした意味でも李白と道教を見ていくことになる。ものがたり的ではなく、できるだけ李白の詩で見ていくことになる。