大堤曲 怨情 贈内


53大堤曲 李白54怨情 李白55贈内


 李白の就職「大作戦」は、始まったばかりで、力になってくれる人をさらに増やさねばならない。
 李白には強い武器がある、詩文を作ることだ。官僚になるには絶対の武器なのだ。現在でいえば、何か国語ができ、知識教養もある人物ということになるか。

 李白の生活ぶりは次の詩も象徴的だ。
 襄陽には遊女のいる歓楽街があった。襄陽を見るときこのことを外すわけにはいかない。


五言古詩
李白53大堤曲

漢水臨襄陽。花開大堤暖。
佳期大堤下。?向南云滿。
春風無復情。吹我夢魂散。
不見眼中人。天長音信斷。


漢江の水は、襄陽のまちに沿って流れゆく。町はずれの大堤の色町は、花が満開、なにかと暖かくする。
この大堤の下で逢うことを約束したのに来てくれない、南の空の雲をみると、涙がすぐにもこみあげてくる。
春風も、わたしにはつれなく吹いて、慕情の夢を冷ましてしまう。
恋しいあの人の面影は、もう見えない。遠い空のかなた、あの人の便りも途絶えてしまった。


○大堤曲 『楽府詩集』#48「清商曲辞、西曲歌」。襄陽歌から派生したものとされる。 ・襄陽 湖北省、漢江にのぞむ町。 ○大境 嚢陽の南郊外にあり、行楽の土地。遊女が住んでいた。○漢水 襄陽の街を北西から、南東に廻るように流れている。大堤からすると南は下流の方角になり、江南からの人ということになる。あるいは、李白が色町の女性と別れた時に作ったのかもしれない。 ○佳期 男女の逢う約束。あいびきの時。○南雲 晋の陸機の「親(肉親)を憶う賦」に「南雲を指して、まごころを寄せ、帰風を望みて誠をいたす」とあり、故郷の肉親を思うと解釈されることが多いが、恋人を思う気持ちを詠っている。

 大堤で逢う約束を破られ、故郷の空へ向かって涙する女性というなら、最終句にもっていかないと理解できない。「いとしい人からの便りも途絶えた」を最終句にしているのは李白の心情だからと考えるほうが、自然体の纏まりがいい。

 李白は大堤の女性と別れたのである。
 儒教や仏教を基本に考える人ならば、故郷にいる肉親を思い、涙を浮かべることになるが、そうではない。女性観について良くも悪くも「楽府」故事を借りているのである。この短い詩の中で、多量の情報を提供し、そして見事に集約している。李白の秀作である。
 現代の道徳観や思想に基づいて評価をするとか、唐以降の儒教者のようにその思想によって、悪意の評価しようとするのは違っている。


○韻 暖、滿、散、斷。


漢水は 嚢陽に臨(のぞ)み、花開いて 大堤暖かなり。
佳期 大堤の下(もと)、涙は南雲に向って満つ。
春風 復(また) 情 無く、我が 夢魂(むこん)を吹いて散ず
眼中の人を見えず、天 長(とおく)にして 音信 断。


李白54 怨情   

?五言絶句。眉・誰(平声支韻)。
怨情

美人捲珠簾、深坐?蛾眉。
但見涙痕濕、不知心恨誰。


満たされぬ思い
美しい人 珠簾れを捲きあげている、部屋の奥深く坐って 蛾眉のように細くきれいな眉をひそめている。
じっと見ていると 涙がほほがに濡れたまま、心に誰をか恨んでいるのだろう。


?珠簾 … 玉を飾ったすだれ。
?蛾眉 … 蛾の触角のような三日月がたの女性の美しい眉。
?? … 眉間にしわをよせて愁いの表情をする。
?”「玉階怨」とおなじく、宮女の悲しみをテーマにした作品とされ、月の出と、外のにぎわいについ誘われるように御簾を上げる。彼女は耳をふさぎ、月の光を逃れて奥深く座る。いじわるな月は、のぞきこむように彼女の顔を照らす。その顔には、涙のあとがぬれている。起・承・転句、ともに、表に出ない月が重要な役割をしているといえよう。最後に、誰を恨んでいるのかわからない、と結ぶが、「顰む」の字に、いま天子の寵を得て時めいている女への、燃えるような嫉妬の情がこめられている。また、この字には「西施の顰み」への連想もある。”

 とされているが、果たしてそうだろうか、宮女の悲しみなのだろうか、
「玉階怨」でも示したが、芸妓が宮廷、貴族階級、士太夫などでも、民間の街の芸妓も「満たされぬ思い」があったはずである。夫人は何人もいておかしくない時代だ。一方では一族の願いと他方では、悶々として暮らすこの矛盾を詠っているのは、どちらの詩もだ。

 満たされない思いを多くの女性たちが持っていたのだ。美貌により、一家が全員がのし上がっていけるそういう現実を考えながらこの詩をみていくと、いろんなことを考えさせてくれる。ただ、李白の近くにも満たされぬ女性がいる。いわば行く先々で女性がいた李白の妻たちだ。李白は妻の気持ちを芸術的技巧で包んでいる気がする。月夜の連想は故郷の月という方がいい。
満たされない思いに対する気持ちに女性のプライドがないといけない。李白は一方でプライドを詠っている。

涙痕 … 涙の流れた跡。

○韻 眉、誰。 

  怨情えんじょう
美人 珠簾(しゅれん)を捲き、深く坐して蛾眉を顰(ひそ)む
但(ただ)見る 涙痕の湿(うるおえる)を、知らず 心に誰をか恨む



李白55 贈内

贈内

三百六十日,日日醉如泥。
雖爲李白婦,何異太常妻。


内(つま)に 贈る
一年、三百 六十日,毎日 べろんべろんに酔っている。
李白"の妻とは名ばかりで,あの太常の妻と同じだということ。


贈内
贈:(詩を)妻に贈る。


三百六十日
一年の全ての日。陰暦での一年の日数。


日日醉如泥
毎日がひどく酒に酔っぱらっている。 
・日日:毎日。 ・醉如泥:ひどく酒に酔う。泥のように酔う。


雖爲李白婦
李白の嫁とはいっても。 ・雖 とはいっても。…といえども。 ・爲 である。 ・婦:嫁。妻。


何異太常妻
一体どこが(漢の周沢)太常の妻と異なろうか。 ・何:なんぞ。反語。疑問。 ・太常:卿の一。礼儀、祭祀を掌る官(『後漢書・百官』)。大常は身を清め命令通りに誠心誠意祭祀を執り行っていた。周沢はしばしば病気になり、斎宮に病臥していたが、妻は周沢の持病を心配し、病状をうかがい尋ねてねて来た。しかし、夫の周沢は、妻が斎戒の禁を犯したと大いに怒り、妻を監獄に送って謝罪した。世間の人は、その行為をきわどいことだと考えて、次のように語りあっていた。



 李白は妻に贈った詩をいくつか残している。これはそのなかでも特に有名なもの。ただ書かれた時期や、どの妻なのかは、正確にはわかっていない。また、酔っぱらって帰ってきて、奥さんに叱られた時の誤魔化しの雰囲気を漂わせた作品という解釈もあるが、実際そんなことをするだろうか。

 李白は、「妻にはこういう態度で臨むもんだ」、と詩を貴族の男性たちに示したものということの方が理解しやすい。
 李白の詩は、尊敬する人、目上の人、仲間内には詩を贈るが、誰かに対して歌うということはないのである。現在の感覚、儒教的な考えでは間違ってしまう。


 李白は、生活のためパトロンに向けて書いているのである。したがって、目上の人であるとか、道教関係、当然、朝廷の関係の詩は比較的作時が明らかなのだ。李白は仙人なのだから。

○韻 泥、妻

内(つま)に 贈る
三百 六十日,日日  醉(よ)ひて 泥の如し。
李白の婦(よめ) 爲(た)りと 雖(いへど)も,何ぞ 太常の妻に 異ならん。