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トピックス 竹林の七賢 230年頃
建安の武骨者は、竹林の七賢であるが、この7人は一緒に清談をしたのではないことは周知のことと思う。建安の思想的背景は道教にあると考えている。道教と老荘思想と関係ないという学説もあるが、儒教国学から嫌気を老荘思想に映っていく時代背景に戦国時代があり、道教に老荘思想が取り込まれ、また変化している。
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三国時代への道
1.官渡の役(200) 曹操と袁紹の、華北支配を巡っての決戦。曹操による青州黄巾軍の接収と、199年の袁術の病死と公孫?の敗死、遼東公孫氏の袁紹への服属などによって、華北では4州を領する袁紹と、天子を擁して2州を支配する曹操の対決が不可避となった。袁紹は全軍を動員して官渡に南下し、十倍近い兵力で曹操を圧倒したが、内訌の放置と糧道の軽視で対峙数ヶ月の後に糧秣をことごとく焼かれて惨敗した。袁紹はついに再起できず、曹操はこの勝利によって華北に覇権を確立した。
2赤壁の戦い(208) 天下統一を図る曹操と、江東を死守する孫権の戦い。劉表の死亡直後に曹操に無条件降伏した荊州では、新野の劉備が降伏反対派と共に江夏に逃れ、柴桑(江西省九江市区)に拠る孫権と同盟して曹操に対抗した。
曹操は荊州水軍を接収すると孫権に帰順を迫って赤壁(湖北省嘉魚)に布陣したが、軍中に疫病が流行して後退を図るところに火攻され、水軍の殆どを喪って撤退した。この一戦で曹操の天下統一は頓挫し、孫権の江東支配が確定し、劉備も荊州南部を獲得して三国鼎立の形勢がほぼ定まった。 一般に、赤壁の役は曹操軍の惨敗とされているが、主だった将官に戦死者はなく、帰還後ただちに銅雀台造営に着手しながらも増税もなかったことから、被害は荊州水軍に集中したものと思われる。
ID |
詩人名 / 事項 |
よみかな |
作品名 |
36 |
関羽(かんう) |
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(?〜219) |
中国、三国時代の蜀(しょく)の武将。河東(山西省)の人。字(あざな)は雲長。張飛とともに劉備(りゅうび)を助け、赤壁の戦いに大功をたてたが、のち呉に捕らえられて死んだ。後世、軍神として各地の関帝廟(かんていびょう)に祭られた。 |
無 題 |
37 |
班u、 |
(はんしょうよ) |
生没年不詳 |
中国・前漢成帝の愛人。成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、大后を長信宮に供養することを理由に退いた。失寵した女性の象徴として、詩の主題にあつかわれることが多い。 |
怨歌行 怨詩(新裂齊?素) |
38 |
梁鴻 |
りょうこう |
生没年不明: |
後漢の人。生没年は不詳。字は伯鸞。扶風平陵(現・陝西咸陽県西北)の人。この詩のために姓名を改め、姓を運期とし、名を燿、字を侯光とする。貧しい家庭の出身である |
五噫歌 |
3.建安文学の文学者
有名、無名を合わせ、数多くの文学者が建安の文壇に名を連ねてはいるが、中でも著名なのが、建安七子と呼ばれる文学者たちである。
孔融・陳琳・徐幹・王粲・応よう・劉驕E阮?ら七人を総称して、建安の七子と呼ぶ。それに加えて、建安文学の擁護者であり、一流の詩人でもあった曹一族の曹操・曹丕・曹植の三人(三曹と呼ぶ)を同列とし、建安の三曹七子と呼称することもある。
また、繁欽・何晏・応きょ・蔡えん・呉質といった著名文学者たちも、この建安文学に携わり、大きく貢献した文壇の一員であるとされている。
ID |
詩人名 / 事項 |
よみかな |
39 |
1)孔 融 (こう ゆう) |
153年 - 208年 |
後漢末期の人。字は文挙。孔子20世の孫に当たる。出身地も遠祖の孔子と同じく青州魯国の曲阜県である。父は孔宙、兄は孔襃。子の名は不詳。 |
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40 |
2)陳 琳(ちん りん) |
- 217年 |
後漢末期の文官。建安七子の1人。字は孔璋。広陵郡洪邑の出身。はじめ大将軍の何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図って諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの際、袁紹が全国に飛ばした曹操打倒の檄文を書いた。 |
飲馬長城窟行
易公孫?與子書 |
41 |
3)王 粲(おう さん) |
177年 - 217年 |
、)は、中国、後漢末の文学者・学者・政治家。字は仲宣。王?の曾孫、王暢の孫、王謙の子。王凱の従兄弟。子に男子二名。山陽郡高平県(現山東省)の人。曽祖父の王?、祖父の王暢は漢王朝において三公を務めた。文人として名を残し、建安の七子の一人に数えられる。 |
登樓賦
公讌詩
詠史詩
七哀詩三首
從軍詩五首 |
42 |
4)徐幹 (とかん) |
- 217年 |
北海郡劇県の出身。字は偉長。零落した旧家の出で、高い品行と美麗典雅な文章で知られた。建安年間に曹操に仕え、司空軍謀祭酒掾属・五官将文学に進んだ。隠士的人格者で、文質兼備であると曹丕から絶賛された。『詩品』では下品に分類される。 |
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43 |
5)応楊 (おうよう) |
〜217 |
字は徳l。汝南郡南頓の人。応cの子。応劭の甥。学者の家の出で、曹操に召し出され、丞相掾属に任ぜられた。平原侯(曹植)の庶子を経て、五官将文学に上った。建安七子のひとり。 |
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44 |
6)劉 驕@(りゅうてい) |
- 217年 |
後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫、劉梁の子(あるいは孫) |
贈従弟三首 |
45 |
7)阮禹 (げんう) |
〜212 |
陳留尉氏の出身。字は元瑜。蔡?に就いて学問を修め、曹洪の招聘を拒否して鞭打たれたこともあったが、建安初年に曹操の司空軍謀祭酒・記室となった。章表書記において陳琳と双璧と謳われたが若くして病死し、殊に曹丕に惜しまれたという。『詩品』では下品に位する。 |
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46 |
王炙(おうえん) |
177〜217 |
後漢から魏(ぎ)にかけての文人。高平(山東省)の人。字(あざな)は仲宣。博覧多識で知られる。詩賦に長じ、建安七子の一人。「従軍詩」「七哀詩」「登楼賦」など。  |
従軍詩
七哀詩
登楼賦」 |
4.桃園の誓い
豕県(たくけん)・楼桑村。この小さな村に、草鞋を売って生計を立てている一人の男がいた。彼の名前は劉備玄徳。漢の中山靖王・劉勝の末裔、景帝の血を引く由緒正しい人物です。彼は黄巾賊の暴挙に強い反感を抱きながらも、自分の力のなさに嘆いていた。そこに幽州の太守・劉焉(りゅうえん)が義軍募集の高札を掲げた。それは官軍(後漢王朝の軍隊)の力では、もはや黄巾賊の暴挙を抑えることができないということを意味していた。この高札を前に劉備が義軍入隊について躊躇していると、後ろから張飛と名乗る巨漢の人物が劉備の自信のなさに大喝。劉備は何かから目覚めたように、義軍への参加を決意したのです。張飛の兄貴分であった関羽と共に、劉備は彼の桃園で義兄弟の契りを結んだ。劉備が長兄、関羽が次兄、そして張飛が末弟。劉・関・張三兄弟がここで固い意志と野望で結ばれた。
5.黄巾の乱の終焉
劉備は義兵を結成すると、直ちに劉焉のもとに駆け付けました。同じ劉一族と知った劉焉は、劉備の来訪を歓迎、義理の甥として扱いました。そうこうしている内に劉備の仕事がすぐ舞い込んできました。最初の任務は大興山に陣取る黄巾賊の退治でした。ここで劉備は関羽・張飛とともに一斉攻撃を仕掛け、敵将・程遠志を討ち取ります。その後も青州城の救援や河南の決戦などで獅子奮迅の活躍を見せ、遂には黄巾賊の副頭領である張宝を倒し、官軍を勝利に導きました。もう一人の副頭領・張梁も官軍の皇甫嵩ならびに曹操の攻撃を受けて戦死。病を患っていた張角も大いなる失望に倒れ、ここに黄巾の乱は幕を閉じました。劉備玄徳は二十三歳の若さでその名を天下に轟かせた。
6.劉備の苦悩
黄巾の乱を平定した官軍の将たちは、続々と都・洛陽へ凱旋し、武勲を挙げた皇甫嵩・曹操らは霊帝より高位高官を授かりました。義軍の劉備たちには何の沙汰もありませんでした。十常侍は義軍上がりの劉備たちに官位を与えるのを躊躇いましたが、とりあえず中山府安喜県の県尉という小さな役職を与え、劉備はそれでも不平不満を言わずにその職を拝命し、任地へ赴きましたが、賄賂をせがまれましたが、劉備は民が苦労して納めた税金を賄賂になど使えないと拒否、これで帝に反することになってしまった劉備は、やむなく任地を去り、流浪の旅に出かけることになった。劉備らが旅中、突然官軍の一隊に出くわした。その軍を率いていたのは公孫贊(こうそんさん・北平の太守)でした。劉備とは旧知の仲で、劉備も彼を兄貴分として慕っていた。公孫贊は劉備の不遇を哀れみ、旅先で劉備たちが倒したという盗賊が手配中のものであったのを上手く利用し、督郵への非礼を赦免させ、平原県の県令という官職を推挙させました。劉備は彼に深く感謝して別れ、直ちに任地へ赴いた。
7.何進の優勢、十常侍の劣勢
一方、都・洛陽ではある異変が起ころうとしていました。霊帝が危篤状態に陥ったのです。霊帝には二人の妃がいて、名を何太后と王美人といいました。そして、その二人ともが霊帝との間に子供を持っていました。しかし、自分の息子である弁皇子を次の帝に即位させたい何太后は、王美人を毒殺。その子・協皇子を霊帝の生母に預けさせたのです。これにより宮中では、何太后の兄である何進(かしん)の権力が一気に増し、洛陽の取締役である大将軍に抜擢されることになったのです。それはさておき、霊帝の余命はもはやいくばくもありません。その霊帝の最後の願いが、協皇子を次の帝にすることでした。ところで十常侍は、最近の何進の勢いが面白くありませんでした。さらに、もしも弁皇子が次期皇帝に即位すれば、何進の権力は増大するばかりです。これを危惧した十常侍は、何としてでも何進の権威を失墜させたかったのです。そんな最中に霊帝の危篤。十常侍はここぞとばかりに霊帝に進言しました。「協皇子を次の帝に即位させるためには、後顧の憂いを絶つために何進の暗殺が必要です」と。霊帝には、もはやそれを画策する気力は残されていませんでした。よって、十常侍は極秘裏に何進暗殺計画を企んだのです。しかし、この情報はいとも容易く何進の密偵に知られ、激怒した何進は霊帝崩御と同時に十常侍および宦官誅滅を掲げて宮廷に乗り込みました。こうして、蹇碩(けんせき)ら何進暗殺を企てた者は全員殺されました。しかし、十常侍の一人である張譲は必死で何太后に命拾いを嘆願。何太后はこれを了承し、これ以上の殺生は無益だと何進に忠告しました。何進はこれを承諾し、張譲は命拾いをしたのです。こうして、弁皇子を少帝として即位させた何進は宮中の全ての権力を手に入れた。
曹操の台頭
しばらくするとまたもや張譲らが何進の権威失墜を目論んで動き始めたのです。怒った何進は今度こそ全員抹殺をしようと試みましたが、何太后に十常侍にはこれ以上手をかけないと約束してしまったため、各地の豪族に使者を送り、宮廷に乗り込んで残りの十常侍を殺害するように命じたのです。しかし、その最中に何太后が何進に話があると使者をよこしました。曹操ら配下の将は、これは十常侍の策略に違いないと進言しましたが、何進は十常侍をなめてかかって聞かず、結局、曹操・袁紹率いる精鋭を引き連れて、何進一人宮廷の中に入っていきました。当然、これは十常侍の策略でした。何進は張譲らによって謀殺され、首は曹操らのもとに送られました。張譲は曹操らに万事終わったので、軍を撤退させるよう命令しました。しかし、曹操はこうなることを見越して精鋭を引き連れてきたのです。曹操は張譲の命令を無視して、十常侍と宦官の撲滅を今度こそ果たすよう全軍に伝え、宮廷に攻めかかりました。老若男女二千人あまりが殺され、十常侍もことごとく討たれました。張譲は少帝と陳留王(協皇子)を連れて宮廷から逃走しましたが、追手の攻撃を受け入水自殺。少帝と陳留王は、何進の使者から事情を聞いて西涼から上洛してきた董卓の軍勢に警護されて、無事宮廷に帰還しました。こうして、十常侍と何進をめぐる争いに終止符が打たれた。
50 |
武帝(曹操)(ぶてい・そうそう) |
155年 - 220 |
後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。現存する彼の詩作品は多くないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴である。 |
・短歌行 ・求賢令 ・亀雖寿・蒿里行 ・薤露 |
やがて、黄巾兵を傘下に組み入れた曹操(後の魏)に、孫権(後の呉)・劉備(後の蜀漢)を加えた三者が鼎立する「三国時代」が到来することとなる。
三国時代(さんごくじだい)は中国の時代区分の一つ。狭義では後漢滅亡(220年)から、広義では黄巾の乱の蜂起(184年)から[要出典]、西晋による中国再統一(280年)までを指す。229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。黄巾の乱(こうきんのらん、中国語:?巾之亂)は、中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾と呼称している。「黄巾の乱」は後漢が衰退し三国時代に移る一つの契機となった。
ID |
詩人名 / 事項 |
よみかな |
作品名 |
51 |
曹丕・文帝(そうひ・ぶんてい) |
187〜226 |
三国時代の魏(ぎ)の初代皇帝。在位220〜26。曹操の長子。字(あざな)は子桓(しかん)。諡号(しごう)、文帝。廟号は世祖。父を継いで魏王となり、後漢の献帝の禅譲によって帝位につき、洛陽を都と定め、国号を魏と号した。九品中正法を施行。詩文を好み、楽府にすぐれた。著「典論」など。 |
寡婦 ・典論
・画餅 ・燕歌行
・善哉行
・王は驢鳴を好めり |
52 |
曹植(そうしょく) |
[192〜232] |
中国、三国時代の魏(ぎ)の詩人。字(あざな)は子建。曹操の第3子。陳王に封ぜられたので、陳思王とも呼ばれる。五言詩にすぐれた。そうち。→建安体→七歩(しちほ)の才 |
七歩詩 ・怨詩行 ・野田黄雀行 ・贈白馬王彪 ・左顧右眄 七哀詩 |
53 |
繁欽(はんきん) |
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54 |
蔡えん(さいえん) |
177年- 239年 |
後漢末から魏初の詩人。字は文姫、または昭姫。陳留圉(現在の河南省杞県)出身。父は蔡?。才女のほまれ高く音律に通じ、また数奇な運命でも知られる。
河東の衛仲道の妻となるが死別。195年(興平2年)、董卓の残党によって乱が起こると、実家に帰っていた蔡?は匈奴の騎馬兵に拉致され、ついには南匈奴の左賢王劉豹に側室として留め置かれることになった。そこで左賢王との間に二子をもうけた。12年後の207年、蔡?の後継者が居ないことを惜しんだ曹操が、身代金として財宝を支払うことによって帰国した(その際、子供を匈奴に残している)。その後、同郷出身の董祀に嫁いだ。また、失われた父の蔵書のうち蔡?の暗記していたものを復元した。陝西省西安市藍田県三里鎮蔡王村に陵墓があり、付近には記念館が建っている。
現存する詩として、自らの波乱の人生をつづった『胡笳十八拍』と『悲憤詩』の二首が伝わっているが、『胡笳十八拍』については後世の産物だという説もある。
蔡?の人生を題材にした作品に、北京の頤和園の長廊に描かれた『文姫帰漢図』、郭沫若の戯曲などがある。 |
悲憤詩
胡笳十八拍 |
55 |
繆襲(きょうしゅう) |
186年〜245年 |
字は熙伯。漢魏の文学者。186年(中平三年)〜245年(正始六年)。東海の人。才学があり、著述がある。※挽歌詩:死者の柩(ひつぎ)を挽(ひ)いてゆくときの歌。死者の立場で歌う。
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230頃 竹林の七賢 3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した
1)阮籍(げんせき) 2)けい康(けいこう) 山濤(さんとう) 4)劉伶(りゅうれい) 5)阮咸(げんかん) 6) 向秀(しょうしゅう) 7)王戎(おうじゅう) |
56 |
応きょ(おうきょ) |
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190〜252 |
字は休l。汝南郡南頓の人。楊の弟にあたる。散騎常侍・侍中を経て、大将軍・曹爽の長史となった。時政を諷刺した「百一詩」は世上の評判を取った。嘉平二年(250)、再び侍中となった。 |
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61 |
1)阮籍(げんせき) |
210〜263 |
三国時代の魏の思想家・文人。陳留(河南省)の人。字(あざな)は嗣宗。竹林の七賢の一人。酒を好み、礼法を無視し、俗人を白眼視した故事で有名。老荘の学を好み、「達荘論」「大人先生伝」を著した。 |
詠懷詩
・白眼視 |
62 |
2)けい康(けいこう) |
(223〜262) |
字は叔夜。?郡の人。?昭の子。河内郡山陽に住んだ。竹林に入り、清談にふけった。あるとき訪ねてきた鍾会に挨拶せず、まともに相手をしなかったので恨まれた。官は中散大夫に上った。呂安の罪に連座して、刑死した。竹林七賢のひとり。『養生論』、『釈仏論』、『声無哀楽論』。 |
・幽憤詩・贈秀才入軍五首 ・呉謡 ・呂安題鳳 |
63 |
3)山濤(さんとう) |
(205〜283) |
字は巨源。河内郡懐県の人。山曜の子。幼くして孤児となり、貧乏であった。老荘を好み、阮籍・?康らと交わった。四十を過ぎてはじめて官界に入り、始辟郡主簿に任ぜられた。曹爽と司馬氏の争いが起こると難を避けて身を隠した。のち司馬師のもとに出仕した。晋に入ると、新沓伯に封ぜられ、吏部尚書・太子少傅・冀州刺史を歴任した。尚書右僕射・侍中に上った。竹林七賢のひとり。『山濤集』。 |
『山濤集』 |
64 |
4)劉伶(りゅうれい) |
(211〜300) |
またの名は霊。字は伯倫。沛国の人。晋の建威参軍となったが、飲酒癖が激しく、放言を好んだ。阮籍・?康らと交わった。竹林七賢のひとり。「酒徳頌」。 |
酒徳頌 ・劉伶
戒酒 ・屋室を
[巾軍]衣と為す |
65 |
5)阮咸(げんかん) |
(210〜263) |
字は嗣宗。陳留郡尉氏の人。阮?の子。はじめ蒋済が招いて、尚書郎となり、曹爽の下で参軍となったが、病気を理由に郷里に帰った。次いで司馬懿が招いて従事中郎に取り立てた。酒を飲む便宜のために、求めて歩兵校尉に移った。読書・山行に親しみ、形式的な礼法に反対した。方外の人には青眼をもって、俗人に対しては白眼をもって接したという。司馬昭がかばい続けたので寿命を全うした。竹林七賢のひとり。「詠懐詩」などの詩も残した。『阮歩兵集』。 |
詠懐詩 |
66 |
6) 向秀(しょうしゅう) |
(227〜272) |
字は子期。河内郡懐県の人。老荘を好み、自然と名教の統一を、儒道合一を主張した。『荘子』の注をなした。?康・呂安と交友した。?康・呂安が殺されると、迫られて洛陽に入った。官は黄門侍郎・散騎常侍にいたった。のちに「思旧賦」を作って?康・呂安を悼んだ。竹林七賢のひとり。 |
思旧賦 |
67 |
7)王戎(おうじゅう) |
234〜305 |
字は濬冲。琅邪郡臨沂の人。王渾の子。王衍の従兄にあたる。相国掾から豫州刺史に累進した。征呉戦に参加し、投降者の招撫にあたった。呉が平定されると、安豊県侯に封ぜられた。尚書左僕射に上り、吏部を宰領した。司徒にまで上った。顕官にありながら談論にふけり、晋朝の危機にありながら政務に関心を持たなかった。性至孝、蓄財を楽しみ、倹嗇であったという。竹林七賢のひとり。 |
此必苦李 |
晉(晉、しん、265年 - 420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋もとも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建業。宋により滅ぼされた。
西暦301年に始まった帝位継承紛争「八王の乱」によって西晋王朝が崩壊し始めたのを契機に、当時、中国の内外に多数居住していた異民族が華北に侵入した。彼らは略奪を行って引き上げるという遊牧民的な行動の代わりに中華領域内に定住して数多くの国を建国した。国の数がおおよそ十六であり、この時代を担った異民族が五族(匈奴、鮮卑、羯、羌、
氏)であったことからこの名がある。
晋
265〜420 |
西晋 265年 - 316年 |
東晋 316〜420 |
五胡十六国 |
一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代に移るとされる。おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。
ID |
詩人名 / 事項 |
よみかな |
作品名 |
68 |
孫楚(そんそ ) |
不詳 - 293年 |
中国・魏および西晋の政治家、武将。字は子荊。男性。本籍は太原郡中都県。祖父は孫資、父は孫宏。子に孫衆、洵(恂とも)、纂。孫に孫盛(洵の子)、孫綽(纂の子)など。若くから卓越した才能があったが、自分の能力を誇るところがあり、周囲の評判はよくなかった。名門の王済と親しく、王済は大中正(九品官人法に基づき官職を決める)に孫楚の人物評を求められると「天才にして知識が広く、群を抜いて優れています」と推薦している。40歳を過ぎてようやく魏に仕え、鎮東参軍事となる。司馬昭の命で呉への使者となった。その後も西晋で石苞の参軍として対呉の最前線にあったが、孫楚は石苞を見下していたので、両者は対立し、石苞は呉の計略もあって謀反の疑いで後方へ召還された。その後、旧知の扶風王司馬駿の参軍となった。
恵帝の初年に馮翊太守となり、293年(元康3年)死去した。 |
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69 |
張華 |
232年- 300年 |
張華(ちょうか、)は、三国時代から西晋の政治家。魏、晋に仕えた。字は茂先。范陽方城(今河北省固安県)の人。晋書に伝がある。妻は劉放の娘 |
壯士篇(天地相震蕩) |
70 |
張協 |
(?〜307?) |
安平郡武邑の出身。字は景陽。夙に俊才として知られ、兄の張載・弟の張亢とは“三張”と並称され、詩名は陸機・潘岳と並称された。秘書郎・中書侍郎を経て河間内史まで進んだが、権臣とは親しまず、八王の乱を避けて隠棲し、叙任を拒んで在野のまま天寿を全うした。
西晋を代表する詩人として、『詩品』では阮籍・左思・陸機・潘岳と共に上品に位し、その評には「王粲の風あり。潘岳より雄にして左思より靡」とある。『苦雨』が代表作とされる。 |
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71 |
潘岳(はんがく) |
247年- 300年 |
西晋時代の文人。字は安仁。中牟(河南省)の人。陸機と並んで西晋時代を代表する文人。また友人の夏侯湛と「連璧」と称されるほど、類稀な美貌の持ち主としても知られている。『世説新語』によると、潘岳が弾き弓を持って洛陽の道を歩くと、彼に出会った女性はみな手を取り合って彼を取り囲み、彼が車に乗って出かけると、女性達が果物を投げ入れ、帰る頃には車いっぱいになっていたという。
潘岳の作る文章は修辞を凝らした繊細かつ美しいもので、特に死を悼む哀傷の詩文を得意とした。 愛妻の死を嘆く名作「悼亡」詩は以降の詩人に大きな影響を与えた。 |
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74 |
左思 |
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250頃〜305頃 |
中国西晋の文学者。臨(りんし)(山東省)の人。字(あざな)は太沖(たいちゅう)。構想10年で書きあげた「三都賦」の人気が洛陽の紙価を高めた故事で知られる。詩では詠史詩にすぐれる。 |
詠史詩 |
75 |
陸機(りく き) |
261年- 303年 |
永安4年(261年) -太安2年(303年))は、呉・西晋の文学者・政治家・武将。字は士衡。呉の四姓(朱・張・顧・陸)の一つ、陸氏の出身で、祖父・父は三国志演義の登場人物としても有名な陸遜・陸抗。本籍は呉郡呉(今の江蘇省蘇州市)。ただし家は呉の都であった建業(現在の江蘇省南京市)の南や、祖父の封地であった華亭(雲間とも。現在の上海市松江区)等にあったようである。七尺もの身の丈を持ち、その声は鐘のように響きわたったという。儒学の教養を身につけ、礼に外れることは行なわなかった。同じく著名な弟の陸雲と合わせて「二陸」とも呼ばれる。文弱で親しみやすい弟に比して、陸機は郷党から畏れられていたが、洛陽に出て西晋に仕えてからは、兄弟ともに呉出身の人士のリーダー的存在であった。西晋のみならず、六朝時代を代表する文学者の一人であり、同時代に活躍した潘岳と共に、「潘陸」と並び称されている。特に「文賦(文の賦)」は、中国文学理論の代表的著作として名高い。また書家としては、彼の「平復帖」(北京故宮博物院所蔵)が現存する最古の有名書家による真跡とされる。 |
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陸雲(りく うん) |
262年- 303年 |
陸雲(りく うん、262年 -303年)は、呉・西晋時代の中国の政治家・文学者である。字は士龍。祖父・父がそれぞれ呉の重臣陸遜・陸抗で、陸機の弟である。兄機と共に「ニ陸」と称されるほどの西晋時代きっての文学者であった。6歳で文を能くし生涯に著した文章は349編に及んだという。16歳で呉に出官するも3年後に呉が晋に降服すると、兄と共に郷里に蟄居してしまう。以後10年間は学問に励む生活を送ったのち、兄陸機と共に上洛、晋に出仕する。
温和な性格で、出身地の呉方言をからかわれその度にいきまく負けん気な陸機をなだめている。晋皇族の司馬晏の郎中令、尚書郎、侍御史、太子中舎人、中書侍郎、清河内史などを歴任した。その後八王の乱に巻き込まれ、陸機共々成都王・司馬穎に殺された。 |
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潘尼(はんに) |
約250〜約311 |
字は正叔。潘岳の弟。太康年間(280〜289)に秀才に挙げられ、太子舎人・尚書郎・著作郎などを歴任した。趙王の簒奪で致仕帰郷したが、斉王が挙兵するとその参軍となり、乱後に安昌公とされた。後に中書令まで進んだが、八王の乱の中ではまったくの無力であり、永嘉の洛陽陥落で郷里に逃げる途中に病死した。潘尼(約250〜約311),西晉文學家。字正叔。?陽中牟(今屬河南)人。潘岳?。少有才,與潘岳?以文章知名。性格恬淡,不喜交遊,專心著述。太康年間,舉秀才。?任尚書郎、著作郎、中書令。永嘉年間任太常卿。洛陽被劉聰攻破之前,潘尼攜家還?,中途病卒。《隋書·經籍志》載有“晉太常卿《潘尼集》十卷”,今不存。明人張溥輯有《潘太常集》1卷,見《漢魏六朝百三家集》。 |
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