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(とう、618年 - 690年・705年 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、894年に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。なお、690年に武則天によって唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述されることが通例である。


● 律令体制とその崩壊
西晋で作られた泰始律令以来、何度か改変が重ねられ、隋の文帝により「開皇律令」が編纂され、唐はそれを受け継いで、何度か修正が加えられつつ運用されていた。
律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして格式がある。律令に当てはまらないようなことを解決するために出された詔勅のうち、それが法として新たに加えられるものが格で、式は律令を運用する上での細則である。
後述する三省六部、九品制、均田制、府兵制などは令によって規定されるもので、このような律令を中心の柱として成り立つ国家体制を律令制と呼んでいる。
唐律令は何度か変更がなされ、玄宗の737年(開元25年)にほぼ完成を見る。この律令を開元二十五年律令と呼んでおり、後世に律令のお手本とされた。
ところが、この時すでに律令が現実の政治状況と乖離していたとの指摘がなされており、それに代わって詔勅と格が現実に適応するためのものとして重要な役割を果たしたとされる。律令は体制の中心としては権威を持っていたが、実際に運用するに当たっては律令がそのまま適用されるというわけではなかった。
さらに安史の乱以後は、唐全体の社会状態が大きく変わり、格式が重要視され、律令は形骸化する。



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  ・昔游
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● 科挙と貴族政治


初唐においては南北朝時代からの風潮を引き継いで、未だ貴族勢力が強い力を保持していた。皇室の李氏を含めて初唐の支配者層を形成したこれらの集団はいずれも同じ関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団のことを関隴貴族集団と呼ぶ。関は関中(陝西省)、隴は現在の甘粛省東部のことである。
この関隴系の貴族は鮮卑系の北朝貴族であり、この他には漢族と北斉の流れを組む山東系貴族、そして南朝の流れを組む南朝貴族がある。血脈の尊貴さという考え方は魏晋南北朝時代を通して、強く刷り込まれており、唐が建国された後でもそれは変わらず、長い歴史を持ち最高の名門とされる山東系の者達から見れば、関隴系は土族としか見えなかった。
これに対して自らより家格が高いとされる家と婚姻関係を結ぶ事で自らの家格を上げることが行われていたが、この場合は下の家格の者が上の家格の者に対して莫大な結納金を積むのが常であった。このような状態を打破するために太宗は貴族の格付けのための本である『氏族志』の編纂を命じ、そこで皇室の李氏を第一等とした。同じく武則天も自らの武氏を李氏に次ぐ第二等とした。
このようなことが行われることは、家格が当時の人にとって大きな意味を持っていたということを示している。
貴族勢力は政治に影響力を及ぼすに当たり、詔勅の審議を司る門下省と官僚の任免賞罰などを司る尚書吏部を支配下に置いており、貴族勢力を脅かそうとするものをこの力で排除していた。
上位官僚には課役の免除、刑罰を金銭であがなえるなどの特権が与えられており、また資蔭と呼ばれる官僚採用法があり、親の官品に応じて子が任官できる制度である。初唐の政治は貴族により掌握されており、資蔭の恩恵にあずかるのは当然貴族の子弟である。
その一方で隋より受け継いだ科挙も実施はされていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。例えば最高位である一品官の子は正七品上に任官できるが、科挙では最高でも正八品上である。さらに前述の通り、尚書吏部は貴族の意向が働いており、科挙出身者は冷遇された。
この体制を崩そうとしたのが武則天である。武則天自身も関隴貴族の出身ではあったが主流には遠く、女性の身で権力を握るという事への反発もあり、関隴貴族の後押しは難しい状態にあった。そこで武則天は科挙を通過してきた者を積極的に登用し、貴族政治を崩そうとした。
武則天の政治自体は705年の時点で終わったものの、次に権力を握った玄宗は武則天が登用した閣僚を使い、また科挙出身者からの登用も同じく行なった。しかし玄宗が後期に堕落したことで、この方針は一時期遠のく。
中期以降の唐では、科挙出身者が徐々に中央政界に進出し始める。貴族勢力の抵抗によって中々上位の官職に就けない状態ではあったが、それでもその流れを押しとどめることはできず、遂に国政に参加できる位置まで上る。この頃になると貴族勢力も自らの退勢を自覚しており、貴族出身でありながら科挙を受験する者も増える。
牛僧孺と李宗閔を筆頭とした科挙出身者達は貴族権力を激しく攻撃したが、政策争いから次第に党派争いへと堕し、この時期にはすでに唐の国力は傾いていたこともあって反って国力を弱める結果となった。
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唐時代の詩人

中唐の詩人たち


● 中唐期の詩人たち

  766〜826 中唐期では、平易な表現を重んじた白居易・元?(?は禾偏に眞)らの「元白体」が現れた一方、個性的で難解な表現を愛用する韓愈・李賀などの一派も存在するなど、詩風は前代よりも多様化する傾向を見せ、それぞれが多彩な性格を持つ詩壇を形成した。また韓愈・柳宗元らにより、六朝以来主流となっていた「四六駢儷体」と呼ばれる修辞主義的な文体を改め、漢代以前の達意を重んじる文体を範とする、新たな文体の創出が提唱された(「古文復興運動」)。韓愈らの試みは次の宋代の文学者に引き継がれ、後世、彼ら古文運動の主導者を「唐宋八大家」と総称する。



ID 詩人名 よみかな 作品名
301 張謂  いちょう 721〜780年
張謂:中唐の詩人。721年(開元九年)〜780年(建中元年?)。字は正言。河内(現・河南省沁陽
県)の人。天宝年間の進士。若い頃は嵩山にこもって勉学に励んだ。権勢にこびず、自ら気骨のあることを
誇っていたという。進士に及第し、節度使の幕僚となって北方に従軍した。いくつかの官を経て、「礼部侍郎」
(文部次官)、「知貢挙」(科挙の試験の総裁)になった。酒の好きな淡白な性格の人で、湖や山を訪れる
のを楽しみにしていた。詩を作るのが巧みであった。早梅(一樹寒梅白玉條) 題長安主人壁(世人結交須
黄金)
302 錢起  せんき 722〜780年
中唐の詩人。字は仲文。呉興(現・浙江省)の人。722年(開元十年)〜780年(建中元年)。天宝十年(751年)の進士。大暦中に翰林学士となった。大暦十才子の一人。江行無題(咫尺愁風雨) 
303 靈一  れいいち 未詳
中唐の詩僧。俗姓は呉氏。廣陵(現・江蘇省揚州)の人。若耶渓(現・浙江省紹興)の雲門寺、餘杭(現・浙江省)の宜豐寺に居し、劉長卿、皇甫冉、朱放らと交わる。題僧院(虎溪闌肢相過)
304 朱放(しつほう)  未詳
唐の詩人。字は長通。襄州の人。越の溪に隠棲する。江西節度參謀となる。後、貞元の初めに、拾遺に召されたが就かなかった。題竹林寺(歳月人間促)
305 劉長卿  りゅうちょうけい 709〜785
字は文房。河間の人。若い頃は嵩山にこもって読書し、のちにハ陽に移住した。開元二十一年(733)、進士に及第した。至徳年間に監察御史から検校祠部員外郎・転運使判官を歴任し、知淮西岳鄂転運留後となった。のち無実の罪で投獄され、南巴の尉に左遷された。ある人が弁明してくれたので、睦州司馬に移り、随州刺史にいたった。五言詩にすぐれ、「五言の長城」と自称した。『劉随州集』。 

重送裴カ中貶吉州(猿啼客散暮江頭)  尋盛禪師蘭若(秋草黄花覆古阡) 細聽彈琴(??七弦上)送李判官之潤州行營(萬里辭家事鼓?) 逢雪宿芙蓉山主人(日暮蒼山遠)  送靈K(蒼蒼竹林寺) 送舍弟之?陽居(?陽寄家處)  
306 顔眞卿  がんしんけい 709- 785年
 死没年からは中唐に分類すべきであるが、盛唐での活躍が大きいので盛唐で掲載している  顔真卿戲答諸少年
307 戴叔倫(たいしゅくりん) 732〜789年
中唐の詩人。字は幼公。(現・江蘇省)潤州金壇の人。道教に帰依した。(732〜789)字は幼公。金壇の人。永泰元年(765)、進士に及第した。翌年、戸部尚書劉晏の幕下で仕えた三閭廟   夏日登鶴巖偶成(天風吹我上層岡)   關山月(月出照關山)   
308 司空曙(しくうしょ)  未詳〜790
中唐の詩人。司空が姓。複姓の一。字は文明。広平の人。虞部郎中に至る。大暦の十才子の一。江村即事(釣罷歸來不繋船)
309 楊巨源(ようきょげん) 770−未詳
中唐の詩人だが生没年不詳。長く宮中や地方の役人を勤めながら優れた作品を世に出した 折楊柳(水邊楊柳
麹塵絲)
310 洪耿こうい 763〜未詳
中唐の詩人。字は洪源。河東の人。 秋日(返照入閭
巷)
311 陸羽 (りくう) 未詳〜804

 
312 顧況(こ きょう) 725- 814年
唐の詩人。蘇州(江蘇省)の出身。字は逋翁(ほおう)。号を華陽山人、また悲翁という。粛宗の至徳2戴(757年)の進士。徳宗のときに秘書郎となり、権官の李泌に師事していたが、李泌が宰相となったとき、自分も昇進すると期待したが、かなり遅れて著作郎に転任したにとどまった。
李泌の死後、弔いもせずに嘲笑的な詩を作ったため、饒州(江西省波陽?陽)司戸参軍に左遷され、やがて家族を引き連れて茅山(江蘇省句容県の東南)に籠もり、最後は消息不明となったので、仙人の術を得たと伝わる。今日では『華陽真逸詩』二巻などが残っている。聽角思歸(故園黄葉滿苔)
313 盧綸  ろりん 748〜800年
中唐の詩人。748年(天寶七年)〜800年?(貞元十六年?)。字は允言。河中蒲(現・山西省)人。大暦十才子の一。大暦の初め,屡々進士の試験を受けるが及第しなかったが後に、監察御史となった。長らく不遇であり、後に檢校戸部郎中となる。和張僕射塞下曲(鷲?金僕姑)
314 孟郊(もうこう) 751- 814年
唐代の詩人。字は東野、諡は貞曜先生という。
湖州武康(浙江省)の出身。狷介不羈で人嫌いのために、若い頃は河南省嵩山に隠れた。798年、50歳の時に三度目で進士に及第し、江蘇省?陽の尉となった。一生不遇で、憲宗の時代に没する。
詩は困窮・怨恨・憂愁を主題としたものが多く、表現は奇異。韓愈とならんで「韓孟」と称せられる。蘇軾は賈島とならべて「郊寒島痩」、つまり孟郊は殺風景で賈島は貧弱と評す。韓愈が推奨するところの詩人であり、「送孟東野序」が知られている。『孟東野集』10巻がある。

(1)登科後  (2)游子吟 (3)古別離 (4)帰信吟  (5)渭上思帰   (6)京山行
315 武元衡  ぶげんこう 758〜815
 字は伯蒼。河南の人。建中四年(783)、進士に及第した。徳宗に才能を認められ、華原の令から比部員外郎・右司郎中・御史中丞を歴任。順宗のときに、王叔文に従わなかったため降職されて太子右庶子となった。憲宗の時代になって御史中丞・戸部侍郎を歴任し、元和二年(807)には門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)に至った。淮西節度使・呉元済が叛乱を起こしたとき、憲宗から委任されて討伐を準備したが、呉元済派の朝臣の放った刺客に暗殺された。 題嘉陵驛(悠悠風旆繞山川)
316 崔護(さいご)  未詳
唐代の人。貞元十二年(796年)の進士。字は殷功。博陵(現・河北省定県)の人。『太平廣記・卷第二百七十四・情感』に録されている
「人面桃花」の人題キ城南莊(去年今日此門中)
317 李賀  りが 790〜816
 福昌昌谷(河南宜陽)の出身。字は長吉。宗室の一員で、早くから才能を称揚されたが、皇族の故に父の諱(晋叔)を避けるために進士の称号を断念せざるを得ず、官人としては不遇だった。一説では、元?との面会を断ったことを恨まれて父の諱の事を指摘され、韓愈の仲介も聴かれなかったという。幼時にすでに韓愈に詩才を認められて[鬼才]と評され、その詩は華麗にして陰鬱と評される。雁門太守行  金銅仙人辭漢歌(茂陵劉カ秋風客)  蘇小小墓(幽蘭露,如啼眼)  雁門太守行(K雲壓城城欲摧)
318 權コ輿 こんとくこう (759-818)
中唐の詩人。字は載之。天水略陽(現・甘肅省秦安)の人。四歳で詩をよくしたという。太常博士、吏部侍郎等に任じられた。徳輿(759-818)は、中唐貞元、元和時期の文壇に君臨した著名な文学者であり、その文章は「弘博雅正、温潤周祥」、詩歌は「中正渾厚、頗多佳什」と評価されている。 蘇小小墓(萬古荒墳在)
319 柳宗元   A  りゅうそうげん 773〜819
 河東(山西)出身。字は子厚。793年に進士に及第し、校書郎をへて監察御史に進んだ。太子近侍の王叔文・韋執誼らに与して順宗即位と共に礼部員外郎とされ、賦役削減の諸改革にも参与したが、憲宗が即位して叔文らが失脚すると永州司馬に左遷された。815年に柳州刺史に転じて弊風改正に注力し、在任中に歿した。
 文人として著名で、韓愈と同じく戦国〜西漢の散文復帰を主張して復古運動を展開したが、六朝以来の形式的な駢文打倒には至らなかった。学術的議論文に優れた韓愈の古文に対して叙景文に優れ、韓愈とともに唐宋八大家の一人とされる。
1江雪 2漁翁 3渓居 4捕蛇者説 5汨羅遇風 6再上湘江 7登柳州峨山 
320 李益  りえつ 748- 827年
中唐の詩人。李益(り えつ、748年 -827年?)は、中国・唐の詩人。隴西姑蔵(甘粛省武威)の出身。字は君虞(くんぐ)。中唐の鬼才といわれた詩人・李賀の同族。大暦4年(769年)の進士で、鄭県(陝西省華県)の尉となったが、昇進の遅いのに不満を抱いて辞職し、河北の地方を遊歴、幽州(北京)・?寧(甘粛省東部)節度使の幕僚となった。その文名が憲宗に聞こえ、秘書少監・集賢殿学士に任ぜられ、傲慢な態度のために一時降職されたが、侍御史・太子賓客・右散騎常侍を歴任、礼部尚書に至った。疑い深い性格で、妻や妾の部屋にはいつも鍵をかけ、戸口に灰を撒いて不義を防いだりしたため、「妬癡(とち)尚書李十郎」と呼ばれたという。大歴十才子の一人に数えられ、『李君虞詩集』二巻が残っている。幽州(征戍在桑乾)   夜上受降城聞笛(囘樂峯前沙似雪)  題軍北征(天山雪後海風寒)  喜見外弟又言別(十年離亂後)  ?河曲(?水東流無限春)
321 元槇(げんしん) 779〜831
 字は微之。河南河内の人。元和元年(806)、進士に及第した。左拾遺となった。しばしば皇帝に上書したため権臣に憎まれ、河南の尉に左遷された。のちに監察御史となったが、宦官の劉士元と争って江陵府士曹参軍に左遷された。通州司馬・?州長史を歴任した。元和の末年(820ごろ)、都に呼び戻されて膳部員外郎となった。さらに中書舎人・工部侍郎を経て、長慶二年(822)には同中書門下平章事(宰相)にまで上ったが、わずか四カ月で罷免されて越州刺史・浙東観察使に転出した。武昌節度使に遷って没した。白居易の親友で、楽府にすぐれ、「元白」と併称された。『元氏長慶集』、『鶯鶯伝』。遣悲懷 聞白樂天左降江州司馬 歳日 離思 ;『元氏長慶集』、『鶯鶯伝』。
322 白居易/白楽天  はくらくてん 772〜846 
 下弁(陝西)出身。字は楽天、号は香山居士。徳宗の貞元年間の進士で、翰林学士から左拾遺に進んだが、淮西鎮対策の上書が貴顕に憎まれて江州司馬に降格され、このときに香炉峯下に草堂を建てた。821年に中央に復帰したものの自ら求めて杭州・蘇州刺史を歴任し、827年に召されて刑部侍郎などを歴任し、刑部尚書をもって842年に致仕した。
 当初は経世済民を志して諫官を自任したが、江州に出されてより地方行政に尽くして善政を讃えられ、西湖の治水・干拓は代表的なもので、“白堤”は現代に至るまで西湖名勝の1つに数えられる。江州時代より詩風も一変し、簡適系と呼ばれる平易・写実的なものが多くなって元?と並称され、玄宗と楊貴妃を題材とした『長恨歌』などは生存中から人口に膾炙し、日本に伝えられた文集は平安文学に多大な影響を与えた。
 弟の白行簡も文人として知られ、官人としては不遇だったが、『李娃伝』は秀作として後世まで広く知られた。 

戲答ゥ少年  讀道コ經 三月三十日題慈恩寺  三月三十日作  春夜宿直  禁中夜作書與元九  雨夜憶元九  夢亡友劉太白同遊彰敬寺  春風  賦得古原草送別  大林寺桃花  問劉  長恨歌   琵琶行・序 琵琶行・一   琵琶行・二  琵琶行・三  琵琶行・終尾   花非花  初貶官過望秦嶺  臨水坐  訪陶公舊宅序  訪陶公舊宅 二首 遊趙村杏花  對酒  想歸田園  太平樂詞  見元九悼亡詩因以此寄  送春  燕詩示劉叟  靈巖寺  新豐折臂翁  楊柳枝 其一〜其八  舟中讀元九詩  村夜  商山路有感  效陶潛體詩  病中哭金鑾子  勤政樓西老柳  新秋  賣炭翁  杪秋獨夜  商山路有感  觀幻  暮江吟  自詠  洛陽春  魏王堤  逢舊  代鄰叟言懷  長安道  感月悲逝者  晩起  勸酒  勸夢得酒  聞哭者  池西樓  杏園花落時招錢員外同醉
324 劉禹錫  りゅうしゃくう 772〜842年
劉禹錫:中唐の詩人。772年(大暦七年)〜842年(會昌二年)。白居易や柳宗元との詩の応酬も多い。白居易とともに『竹枝詞』や『楊柳枝』を作る等、前衛的、実験的なことに取り組む。字は夢得。監察御史、太子賓客。

烏衣巷(朱雀橋邊野草花)/與歌者何戡(二十餘年別帝京)/秋詞(自古逢秋悲寂寥) 同樂天登棲靈寺塔(歩歩相攜不覺難)/同樂天登棲靈寺塔(歩歩相攜不覺難)/元和十一年自朗州召至京戲贈看花ゥ君子(紫陌紅塵拂面來)/杏園花下酬樂天見贈(二十餘年作逐臣)/詠紅柿子(曉連星影出)/逢舊/憶江南
秋風引(何處秋風至)/浪淘沙(八月濤聲吼地來)/楊柳枝詞(煬帝行宮?水濱)/石頭城(山圍故國週遭在)/浪淘沙(九曲黄河萬里沙)/再遊玄キ觀(百畝庭中半是苔)
325 韓愈   @  かんゆ 768〜824年
韓愈:中唐の文人、政治家。768年(大暦三年)〜824年(長慶四年)。洛陽の西北西100キロメートルの河陽(現・河南省孟県)の人。諡は文公。四六駢儷文を批判し、古文復興を倡えた。仏舎利が宮中に迎えられることに対して韓愈は、『論仏骨表』を帝(憲宗)に奉ったが、却って帝の逆鱗に触れ、潮州刺史に左遷された。その時の詩が多い。唐宋八大家の一人。
醉留東野(昔年因讀李白杜甫詩)   山石(山石犖?行徑微)   忽忽(忽忽乎余未知生之爲樂也  左遷至藍關示姪孫湘
326 張継  ちょうけい 生没年不詳
 中唐の詩人。字は懿孫(いそん)、湖北省襄州(じょうしゅう)に生まれた。天宝12年(753)の進士。地方官より中央の検校(けんこう)祠部(しぶ)郎中(ろうちゅう)に至る。張祠部(ちょうしぶ)詩集一巻あり。『楓橋夜泊』の詩は内外に愛誦される。清の学者兪越(ゆえつ)の書いた石碑が寒山寺にある。
楓橋夜泊(月落烏啼霜滿天)  杪秋獨夜
327 張籍  ちょうせき 768〜830年
中唐の詩人。字は文昌。和州(かしゅう)烏江(安徽省和県)の人。師友の韓愈に目をかけられ、その推薦によって、国子博士となった。楽府に長じている。

 節婦吟寄東平李司空師道 蜀道後期(客心爭日月) 幽州新歳作(去歳荊南梅似雪)
(1)哭孟寂   (2)秋思秋思(洛陽城裏見秋風) 董逃行(洛陽城頭火??) 征婦怨(九月匈奴殺邊將)
328 韋應物  いおうぶつ 735〜835
 京兆長安の出身。若い頃は任侠を好んで玄宗に仕えたが、帝の死後は改めた。洛陽丞・徐州刺史・蘇
州刺史を歴任し、蘇州刺史の時代には善政を行なって韋蘇州と尊称された。五言詩に優れ、詩風は陶淵
明に似て韋陶と並称されるほどで、白居易とも交際があった。

與村老對飮(鬢眉雪色猶嗜酒)   調笑令寄李?元錫(去年花裏逢君別)  ?州西澗(獨憐幽草澗邊
生)  秋夜寄丘二十二員外(懷君屬秋夜) 
329 賈島(かとう)  779〜843年
賈島:中唐の詩人。779年(大暦十四年)〜843年(會昌三年)。字は浪仙。范陽の人。初め、僧侶で無本と号し、後、韓愈に認められて(「推敲」)還俗、仕官した。五言律詩にすぐれる 范陽出身。字は浪仙、号は無本。科挙に失敗を重ねて青龍寺に居し、元?・白楽天の平易な詩風に反対し、苦吟推敲を重ねて作詩することを提唱した。“推敲”の語の由来者であり、823年、詩作に没頭して京兆尹韓愈の車列を乱してより韓愈に詩才を認められ、還俗して進士科にも及第したが、微行中の宣宗に無礼があって罷免され、困窮の裡に歿した。渡桑乾(客舍并州已十霜)   尋隱者不遇(松下問童子)   題李凝幽居   三月晦日贈劉評事   對酒
330 李紳  りしん 780〜846年
李紳:建中元年(780年)〜會昌六年(846年)。中唐の詩人。字は公垂。無錫の人。 潤州無錫の出身。字は公垂。徳宗の元和年間の進士。穆宗に召されて右拾遺とされ、ついで翰林学士に進められて李徳裕・元?とともに“三俊”と称され、累進して戸部侍郎まで進んだが、824年に宰相の李逢吉と対立して端州司馬に遷された。地方官を歴任し、842年に李徳裕に反対されながらも同平章事に進められたが、翌年には退けられて淮南節度使で終った。念金鑾子
331 李渉・李渤  りしょう 773〜831
中晩唐の詩人。初め、弟の李渤とともに廬山に隠棲して白鹿を飼っていたが、憲宗の時代に太子通事舍人となった。清谿子と号した。洛陽(現・河南省洛陽)の人。題鶴林寺(終日昏昏醉夢間)  重登滕王閣(滕王閣上唱伊州)
332 薛瑩(せつえい) 未詳
中唐の詩人。文宗時代の人。秋日湖上(落日五湖遊)
333 薛濤(せつとう) 768- 831年
伎女・詩人。魚玄機とならび詩妓の双璧と称される。長安の出身(一説では成都とも)。父の赴任とともに蜀へ移り、14・5歳の頃に任地で父が亡くなり17・8歳頃までに楽籍に入った(伎女となること)。蜀の長官・韋皐の屋敷に召されて酒宴に侍し、詩を賦して女校書と称せられた。浣花渓にいて、白居易・元?・牛僧孺・令狐楚・張籍・杜牧・劉禹錫などと唱和し、名妓として知られた。春望詞一首  送友人 海棠渓



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