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     (車罔)
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視覚の美、仏教徒としての静寂な思想と恬淡で清新優美な芸術的風格の詩である。

王維ものがたり

終南山
終南山
太一近天都、連山到海隅。
白雲廻望合、青靄入看無。
分野中峰変、陰晴衆壑殊。
欲投人処宿、隔水問樵夫。


終南山:
山の姿を人生に例えると、過去は白雲に閉ざされて見えず、前途は漠として青い靄が立ち込めているようである。
あえて靄のなかに踏み込んでみると、靄は消えてなくなっている。
天空の星の分野と地上に起こる現象は照応していると言われているが、終南山の峰ごとに星の分野は異なっており、峰ごとに晴れもあれば曇りもある。人生は終南山のようなものだ。

詩は「人処宿」に投じようと思うけれども水を隔てた漁夫と問答をしているようなものであると結んでいる。人は権力者よりもも自然のなかで暮らす素朴な人々にこそ生きていく喜びを感じるものなのだ。

白雲たなびく山々。
それは様々な変化を感じさせます。そしてずっと手前川の中ほどに描かれた猟師と彼に声をかけている旅人が一人。
王維の詩は、彼の詩に触れた人をこのような山水画の世界に誘ってくれる一幅の絵画の詩である。

太一:終南連山の主峰
天都:天にそびえる高さ
海隅:海のそば、連山が続くさまをいう。
白雲廻望合:振り向いて遠望すると白雲が視界を遮る。
青靄入看無:青い靄が見えていたのにその当たり行くとない。
分野:中国の各州地方は9つの天空分野から成り立っているということを示し、それが峰々によって区切られている。峰の中で変る。
陰晴:晴れたり曇ったり
衆壑殊:それぞれの谷により違う。
人処:人のいるところ






















送元二使安西

王維の詩は生涯の間に大変変化しています。
この詩は王維の詩と知らずに博義として唐代の、人々は「陽関三畳」(ようかんさんじょう)などと唐代の流行歌として、送別会の宴席などで吟唱されていました。三畳というのは三回重ねて歌うことで、四句のうち後半の三句を二回ずつ繰り返して歌う場合と、最後の一句だけを三回繰り返す歌い方です。前者はにぎやかに送る場合、後者は別れを惜しむに場合に吟じられました。送別会のはじめに座を賑やかにし、最後はしんみりさせるほどの流行歌でした。

送元二使安西    王維 
渭城朝雨纏輕塵,
客舎柳色新。
勸君更盡一杯酒,
西出陽關無故人。
     

元家の二男が安西都護府に使者として(旅立つのを)見送る。
渭城に、朝降った雨は、舞い上がる塵を潤して、旅館(の庭に生えている草木は、朝雨のために)青々として、(雨に洗われて、ホコリも流れ落ち、)ヤナギは蘇ったように生き生きとした新たな色合いを見せている。
あなたにお勧めするが、もう一杯、飲み乾(ほ)したまえ。ここから西の方の陽関の外へいくと、だれも知り合いはいない。

 詩中の「渭城」(いじょう)は長安の西北にあった咸陽の街の雅称で、そこを流れる渭水に渭橋が架かっていたことから渭城と詩的に呼んだのです。唐代では西に旅立つ人を見送る場合、渭橋まで送るのが常でした。


杜甫・王維・李白の生きた時代:関連年賦 (その時詩人は)
中国の漢詩の中下最高峰の詩人が遭遇していた。

安史の乱 その時
安史の乱と三詩人
安史の乱は詩人の運命を変えました。


杜甫と馬  -杜甫研究
杜甫は馬が好きで馬を題材にした詩をたくさん書いていますが、ある時から、詠わなくなります。虫とか、花や自然を題材にしていきます。 


  女性詩人たち 
雰囲気の柔らかい詩を書く詩人たち
王昭君 卓文君 劉細君班u、 蔡炎 謝眺 ・上官婉兒  楊貴妃
 ・薛濤 唐婉  魚玄機 秋瑾

  李 白 楊貴妃を詠う
  白楽天 楊貴妃を詠う
 ・白楽天王昭君を詠う二首
 四大美女の詩

中国時代の変遷・概略 時に詠う
漢詩理解のための時代の解説
 中国の時代と詩人のたち
上代から漢の詩人
孔子 孟子 屈原 宋玉 荊軻 項羽
から三国、隋の詩人
武帝 蘇武 王昭君 卓文君 蔡邑
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 唐代の詩人
  ・初唐の詩人たち
魏徴 王勃 蘆照鄰 駱賓王 沈栓期 宗之問 上官儀 上官宛兒 劉希夷
  ・盛唐の詩人たち
張説 張九齢 賀知章 孟浩然 王維 裴迪 王昌齢  王翰 賈至 高適 李白 杜甫 岑參 王之渙 
  ・中唐の詩人たち
張謂 韋応物 劉張卿 孟郊 柳宗元 劉禹錫 白楽天 張継 顔真卿 元槇 薛濤
  ・晩唐の詩人たち
杜牧  李商隠  温庭均 高駢 曹松  魚玄機
 
 宋代から近代詩人
林逋 蘇東坡 欧陽脩 司馬光 晏殊 王安石 曹鞏 岳飛 陸游 朱熹 辛棄疾 高啓 秋瑾 



王維の詩

● 王維詩研究

  ・ 王維詩 
    年賦・詩の時系序列
○ 王維 詩目次と詩のタイトル
○ 王維詩アウトライン
○ 王維ものがたり(一般論)
○ 王維ものがたり(画期的時期)研究
(1)少年行 四首其の一
 (2)少年行 四首其の二
 (3)少年行 四首其の三
 (4)少年行 四首其の四

田園楽七首 1 千門
田園楽七首 2 再見
田園楽七首 3 採菱
田園楽七首 4 芳草
田園楽七首 5 山下
田園楽七首 6 桃紅
田園楽七首 7 酌酒


1孟城幼 もうじょうおう
2華子岡 かしこう
3文杏館ぶんきょうかん
4斤竹嶺 きんちくれい
5鹿柴   ろくさい 
6木蘭柴 もくらんさい
7茱萸拌 しゅゆはん
8宮塊陌 きゅうかいはく
9臨湖亭 りんこてい
10南 陀 なんだ
11欹 湖 いこ
12柳 浪 りゅうろう
13欒家瀬らんからい
14金屑泉 きんせつせん
15白石灘はくせきたん
16北 陀 ほくだ
17竹里館 ちくりかん
18辛夷塢 しんいお
19漆 園 しつえん
20椒 園 しょうえん



李白の詩
■ 李白の詩
 ・送別の詩  ・春爛漫詩
 ・楼上の詩  ・交友の詩
 ・情愛の詩  ・酒友の詩
 ・夏日の詩  ・戦乱の詩
 ・懐古の詩  ・気概の詩
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 ・閑適の詩  ・老境の詩
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トップページ> 時代と詩> 王維> 王維ものがたり 罔川集 20首
 王維詩

王維詩  王維の年譜 

視覚の美、仏教徒としての静寂な思想と恬淡で清新優美な芸術的風格の詩。
.言葉で語りつくせない余韻を残す詩。静寂な詩の世界に誘われ、読む人の心を豊かにします。

■ 王 維
(699年 〜 761年) 【『新唐書』参考に、『旧唐書』に準拠】
 中国盛唐期の高級官僚で、時代を代表する詩人。また、画家、書家、音楽家としての名も馳せた。字は摩詰、最晩年の官職が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれる。太原(現在の山西省太原)の出身。同時代の詩人李白が詩仙、杜甫が詩聖と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。韋応物、孟浩然、柳宗元と並び、唐の時代を象徴する自然詩人である。とりわけ、王維はその中でも際だった存在である。近年、孟浩然との比較に、「静」自然の王維、「動」自然の孟浩然という表現もなされている。画についても、『南画の祖』と仰がれている。賈至、杜甫、岑参、裴迪 祖詠などと、友人関係にあり、詩のやり取りを多く残している
 汾州(山西省汾陽)司馬の王處廉の長男として生まれる。母の崔氏は敬虔な仏教徒で、王維はその影響を強く受けながら成長した。名の維と字の摩詰とは、『維摩経』の主人公である居士の維摩詰の名を分割したものである。弟、王縉。王維の結婚や妻についてはほとんど知られておらず、「文陽の人」としており、30歳頃身分の違いを超えて結婚したようだ(農民階級へ)。しかし、王維33歳、妻の死後、二度と妻を娶らなかったことだけが伝えられています。妻の死以後の詩風はかなり変化します。

699年1歳・山西省太原に生まれる。字は摩詰。王右丞とも呼ばれる

709年11歳・辞(韻文の一体)を作る
713年15歳・このころ長安に遊学する
     「題友人雲母障子」 (君家雲母障)
     「過秦始皇墓」(古墓成蒼嶺)
715年17歳
     九月九日憶山東兄弟」(獨在異ク爲異客)
・音楽の才能が生まれつきあり,琵琶が巧みで玄宗の弟の岐王に愛される
 容姿も端麗でかなりモテる。
716年18歳
    「洛陽女児行」(洛陽女児対門居)
    雑詩五首其一 (朝因折楊柳)
    雑詩五首其二 (双燕初命子)
     草春行(紫梅発初遍)
717年19歳・京兆府(けいちょうふ)試を受けて首席で合格
     西施詠(艶色天下重)
     李陵詠(漢家李将軍)
     賦得清如玉壷氷(気似庭霜積) 
718年20歳息夫人(莫以今時寵)
     雑詩五首 其三(家住孟津河)
     雑詩五首 其四(君自故郷来) 雜詩(君自故ク來) 
     雑詩五首 其五(已見寒梅発) 

719年21歳・進士に及第し、太楽丞(従八品下)になる。当時としては、非常に若い任官で、(宮廷の音楽を司る)王維が琵琶に巧みなのが考慮されたもの。
     勅借岐王九成宮 避暑 応教(帝子遠辞丹鳳闕)
     少年行四首 其一(新豊美酒斗十千)
     少年行四首 其二(出身仕漢羽林郎)
     少年行四首 其三(一身能擘両彫弧少年行(一身能擘兩雕弧) 
     少年行四首 其四(漢家君臣歓宴終)
     「燕支行」
     観猟(風勁角弓鳴)
     相思(紅豆生南國)  
720年22歳二十二歳になった開元八年(720)の秋、突然の人事異動で済州(山東省荏平県)の司倉参軍(しそうさんぐん)へ転勤を命ぜられます。左遷です。
720年22歳
     登河北城楼作(井邑傅巌上)
     渡河到清河作(汎舟大河裏)
     被出済州(微官易得罪)
王維は改めて左遷された身の不運を悔み、「縦え帰来の日有るも 多く年鬢の侵すを愁う」と将来を悲観します。王維はこのときから開元十四年(726)の春まで五年あまり済州にとどまりますが、その間の行動はよく分かっていません。
     魚山神女祠歌 二首(坎坎撃鼓)
     魚山神女祠歌 二首(紛進拝兮堂前)
724年26歳友人の祖詠(そえい)が王維を訪ねて来る
     済州送祖三二首 其一(相逢方一笑)
     済州送祖三二首 其二(送君南浦涙如糸)
     自大散已往深林(危逕幾万転)
     自大散已往深林(静言深渓裏)
     暁行巴峡(際暁投巴峡)
728年30歳
     淇上即時田園(屏居淇水上)
     寒食上作(広武城辺逢暮春)
文陽の人は王維の勤め先の近くに住み、ふたりは再び逢う瀬を重ねるようになったようです。そのころ王維は嵩山(洛陽の東南54`b)の麓に住んでいました。
     帰嵩山作(清川帯長薄)
729年31歳
     過李揖宅(閑門秋草色)
     罔川閑居(一従帰白社)
     田園楽七首 其一(出入千門万戸)
     田園楽七首(再見封侯万戸)
     田園楽七首 其三(採菱渡頭風急)
     田園楽七首其四(萋萋芳草春緑)
     田園楽七首其五(山下弧煙遠村)
     田園楽七首其六(桃紅復含宿雨)
     田園楽七首其七(酌酒会臨泉水)
     酬虞部蘇員外過藍田別業不見留之作(貧居依谷口)

・王維は「文陽の人」と正式に結婚するために、士身分も捨てなければならなかったようです。
731年33歳・山荘での生活は二年ほどしかつづきませんでした。開元十九年(731)の夏のころ、三十三歳の王維は愛する妻を亡くしました。悲しみに沈む王維を慰めようと、秋になって友人たちが訪ねてきました。
731年33歳
     酬諸公見過(嗟余未喪
     喜祖三至留宿(門前洛陽客)
734年36歳・妻を亡くした王維は田園の閑居にも意味がなくなり、母や弟妹をかかえて生活にも困窮した。妻の三年の喪があけると、張九齢を頼って再び官途につく運動をはじめました。
     上張令公(珥筆?丹陛)
     上張令公(天統知堯後)
735年37歳・張九齢は王維を自分の部下に採用した
     献始興公(寧棲野樹林)
     献始興公(側聞大君子)

・王維の中書省勤務がはじまった開元二十三年(735)に、李林甫(りりんぽ)が礼部尚書同中書門下三品に任ぜられ、宰相の列に加わり台頭します。李林甫は皇室の支脈につながる門閥官僚で、理財に明るく、反面、文人知識人を毛嫌いし、宦官と謀をめぐらします。張九齢は進士系官吏の指導者的立場にいましたので、李林甫の標的にされ、開元二十四年(736)の11月に張九齢は宰相を辞任させられ、尚書右丞(正四品上)に格下げされます。かわって宰相の列に加わった李林甫の推薦する牛仙客が、翌開元二十五年(737)に御史台の監察御史(今の警察)で周子諒が牛仙客を弾劾したのですが、その文中に不適切な語があったとして、逆に周子諒のほうが杖刑に処され、さらに徐州に流されたが、その途中、周子諒は藍田で暗殺された。
 周子諒は張九齢が推薦した官吏であったので、張九齢も連座の罪に問われ、荊州大都督府の長史に左遷されることになりました。大都督府の長史は次官で従三品の高官ですが、荊州(湖北省江陵県)という地方官に追い出されたのです。

王維は憤慨し、張九齢に詩を送りますが、張九齢が完全失脚したので、王維も職を辞します。張九齢とその前の張説は優れた文人詩人です。則天武后没後、唐朝を支えてきた人物です。これより表面の華やかさを示しつつ、安史の乱への闇の道へ導くのは李林甫と楊貴妃一族なのです。王維の人生のエポックメーキングである。
(杜甫はこの頃から就職活動を始めるわけでうまくいくわ
けはないのは当然のことである。張説、張九齢と続いた節
度ある政治を行った文人たちのルートとは違った血縁・貴
族ルートで士官を考えていたのです。)

737年39歳
  寄荊州張丞相(所思竟何在)
  双黄鵠歌送別(天路来兮双黄鵠) 
  双黄鵠歌送別(悲笳?唳垂舞衣)
  涼州郊外遊望(野老才三戸) 
738年40歳
  送岐州源長史帰(握手一相送)
739年41歳
  使至塞上(銜命辞天闕)使至塞上(屬國過居延) 
  出塞作(居延城外猟天驕)
740年42歳・王維は西北方面に出張した翌年の開元二十八年(740)に、同じ御史台の殿中侍御史(従七品上)に昇格します。この年の二月に張九齢が亡くなったので襄陽にもどっていたのです。十年振りに孟浩然と再会した王維
  漢江臨汎(楚塞三湘接)
  登辨覚寺(竹径従初地)

740年42歳・文部郎中(文部次官)になる。黔中(けんちゅ)での仕事を終えて長安にもどる途中、王維が再度、襄陽(じょうよう)に立ち寄ると、思いがけないことに孟浩然は背中に疽(そ)を患ってすでに亡くなっていました。享年は五十二歳です。
  哭孟浩然(故人不可見)
  李白:「黄鶴樓送孟浩然之廣陵」(故人西辭黄鶴樓 )
741年43歳「玄元皇帝の玉像を慶ぶの作」という詩を作りました。王維は召されて御製に奉和する詩(応制の詩)を作っています。
742年44歳
  奉和聖製慶玄元皇帝玉像之作 応制(明君夢帝先)
743年45歳
  寒食城東即事(清渓一道穿桃李)
  送元二使安西(渭城朝雨?輕塵)
  送劉司直赴安西(絶域陽関道)
王維は生涯に多くの送別の詩を作っていますが、ほとんどの作品が制作年次不明です。
  送韋評事(欲逐将軍取右賢)
  別弟縉後登青龍寺望藍田山(陌上新別離)
旅の別れには、官途に就いている肉親との別れもあります。王縉(おうしん)は王維の一歳年下の仲のよい弟です。詩には弟の身を思いやる王維のあふれるような真情が詠われています。
744年46歳744年ころ〜751年八年間ほどの王維の伝記 不明。四十六歳から五十三歳までの期間ですので、詩人としても官吏としても脂の乗り切った重要な時期であり、多くの詩が書かれたはずが、ほとんどが制作年次を確定できない。仏教:禅宗との関係か?
745年47歳
  帰罔川作(谷口踈鐘動)
  別罔川別業(依遅動車馬)
746年48歳
  和太常韋主簿五郎温湯寓目(漢主離宮接露台)
748年50歳
  積雨罔川荘作(積雨空林烟火遅)
  山居秋暝(空山新雨後)
750年52歳
  罔川闍書。裴秀才迪(寒山転蒼翠)
酌酒与裴迪(酌酒与君君自寛)
750年52歳・天宝九載(750) 母崔氏歿。享年七十歳。王維は悲しみのために食事も咽喉を通らなかった。親が死ねば三年間の喪に服することになり、勤務につくことはできない。
 (王維はマザコン、母は熱心な仏教徒で王維に大きな影響を与える。別荘の一部に寺を建立)
752年54歳・喪明 天宝十一載(752) 文部郎中(従五品上)に。 3月尚書省吏部郎中(官吏の任免に関する重要な職)。天宝十一載の11月に宰相李林甫が病没。楊貴妃の又従兄妹にあたる楊国忠が宰相になる。
753年55歳
  勅賜百官桜桃(芙蓉闕下会千官)
  送秘書晁監還日本国(積水不可極) 遣唐使の阿倍仲麻呂と友人関係。
754年56歳
  王維 罔川集 20首 (車罔)
  竹里(獨坐幽篁裏) 鹿柴(空山不見人) 
王維


罔川集
  1 孟城幼   2 華子岡   3 文杏館   4 斤竹嶺
  5 鹿柴    6 木蘭柴   7 茱萸拌   8 宮塊陌
  9 臨湖亭 10 南 陀 11 欹 湖 12 柳 浪
13 欒家瀬 14 金屑泉 15 白石灘 16 北 陀
17 竹里館 18 辛夷塢 19 漆 園 20 椒 園

755年57歳
・安禄山の乱起こる  天宝十四載(755) 11月9日早朝、安禄山は幽州(北京)で兵を挙げ、安史の乱がはじまります。安禄山軍は十二月十三日には洛陽に入城
756年58歳・叛乱軍に捕らえられる
翌天宝十五載正月、安禄山は洛陽で即位して国号を大燕と称します。その年の六月八日、唐の潼関の守りは破られ、玄宗は六月十三日早朝、楊貴妃や皇族、一部の側近を連れて長安を脱出し蜀地へ向かいますが、家臣に楊貴妃一族が事の発端と責められ、一族を殺害。
 王維は都に取り残され、隠れていたところを安禄山軍に捕らえられる。長安で叛乱軍に捕らえられた高官は洛陽に連行され、大燕の役人として仕えることを強要される。
  菩提寺禁裴迪来相(万戸傷心生野煙)
  菩提寺誦示裴迪(萬戸傷心生野煙) 
757年59歳
  既蒙宥罪旋復拝官(忽蒙漢詔還冠冕)
758年60歳
  和賈舎人早朝
759年61歳
 ・王維は亡母と妻の菩提を弔うため罔川荘の一部を寺として寄進。清源寺といい、壁には王維自身の手による罔川図が描かれていた。王維の書画家としても堪能。

終南別業
「終南別業」 (中歳頗好道)
  贈除中書望終南山歌(晩下兮紫微)
  送別(下馬飲君酒)送別(下馬飮君酒) 
759年過香積寺(不知香積寺)
  酬郭給事(洞門高閣靄余暉)
  酬張少府(晩年唯好静)
  山居秋暝(空山新雨後) 
  送別(山中相送罷)  
  果州相過(麗日照残春)
760年62歳
 ・乾元二年(760)は閏四月に改元で、上元元年となる。洛陽は依然として史思明軍に占領。
 ・王維は給事中から尚書右丞(正四品上)に昇進した。三品階あがった、実際は実権のない閑職に移った。
  答張五弟 雑言(終南有茅屋)
  哭殷遥二首其一(人生能幾何)
             (行人何寂莫)
  哭殷遥二首其二(送君返葬石楼山)
  歎白髮(宿昔朱顏成暮齒) 
761年63歳
・ 王縉はそのころ蜀州刺史の任にあって都を遠く離れていました。王維の願いは聴き入れられ、弟は門下省左散騎常侍(従三品)に任ぜられ、都に帰って来ることになる。
  夏日過青龍(龍鐘一老翁)
  秋夜独坐(独坐悲双鬢)
王縉が長安の西の鳳翔まで戻ってきますが、7月、弟に別れの書を、また親しかった人々へ数篇の別れの書をかいている途中、筆を落とした。享年六十三歳、王維は弟に会えないまま、安史の乱の終息を見ないまま亡くなったのです。
  終南山(太一近天都)

もう川集 二十首(車罔)川

王維


罔川集
  1 孟城幼   2 華子岡   3 文杏館   4 斤竹嶺
  5 鹿柴    6 木蘭柴   7 茱萸拌   8 宮塊陌
  9 臨湖亭 10 南 陀 11 欹 湖 12 柳 浪
13 欒家瀬 14 金屑泉 15 白石灘 16 北 陀
17 竹里館 18 辛夷塢 19 漆 園 20 椒 園




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