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静夜思 李白37


李白37 静夜思 五言絶句
長安付近で求職活動に懸命になっていたがうまくはいかない。李白は31歳になっていた。安陸の女性か、蜀の女性か、静かに照らす月光は故郷を思い出さずにはおれなかった。

この詩は説明・解説ができないほどレベルの高い傑作であろう。訳したり、書き下すのも詩の持っているものを生かすことはできない。文字通り、絶句である。

静思夜

牀前明月光,疑是地上霜。
舉頭望明月,低頭思故ク。

寝台の前をに月光が射している、その光が白く冴えて霜のように見える。
自分は頭を挙げて山上の明月を望み、頭を垂れて遠い故郷のことを思う。

床前 月光 明るし、疑ふらくは是れ地上の霜かと。
頭を舉あげて 明月を望み、頭を低(た)れて 故クを思ふ。

床前明月光
ベッド先の明月の光(は)。 ・床前:ベッド先。ベッドの前。ベッドの上。 ・明月光:明月の光が射している。「看月光」ともする。その場合、「月光を看る」になる。なお、「月」の語で聯想することは、当時では、離れている人を偲ぶ、ということになる。「太いなる陰」なのである。現在のようにロマンチックな雰囲気ばかりではない。 ・明月:(明るく)澄みわたった月。皎々とあかるく照る月。日本語で云うところの「名月」。蛇足だが、「明月」「名月」ともに〔めいげつ〕と言うが、詩詞では「名月」は使わないで、「明月」を使う。「名月」は陰暦八月十五夜の月だが、使われた実績がない。 ・明:澄み切った。「明鏡」の「明」に同じ。


疑是地上霜:(ベッド先を照らす明月の光は、)疑(いぶ)かることだが、地上に降りた霜か(とも見まがう)ものだ。 ・疑是:疑うには。疑うことには。疑はしいことには。本来は、動詞、形容詞。 ・是:名詞(句)の後に附く。それ故、「疑是地上霜」は、「『疑』ふことには『地上霜』である」になり、「疑」の部分の読みは名詞化して、伝統的に「『疑ふ』らく」としている。漢語語法に合致した正確な読みである。 ・地上霜:地上に降りた霜。月光に照らされているところの表現描写である。

舉頭望明月
頭をあげては、明月を望んで。 ・舉頭:かうべをあげる。横になっていた頭をもたげて。あおむく。・舉:高く持ち上げる。ここでは、横になっていた頭をもたげること。ただし、後出の「低頭」の対であるため、「仰向く」になる。 ・望明月:明月を看る。月は家族を聯想する重要なよすが。


 ・明月:明るく澄み渡った月。名月。「望山月」ともする。その場合、「山月を望む」になる。

低頭思故ク
頭を下に向けては、故郷を懐かしく思いおこす。 *月光は、離れたところの家族を偲ばせるという伝統があり、李白も月光によって、触発されて故郷の親族を思い起こしているわけである。「明月を見た」⇒だから⇒「故郷の親族を思い起こした」という、伝統的な発想法に則っている。 ・低頭:かうべをたれる。うつむく。俯く。 ・思故ク:望郷の念を懐く。

李白は自分の寝台の前に月が照っている、その光が
白く冴えて霜のように見える。自分は頭を挙げて山上の
月影を望み、頭を垂れて遠い故郷のことを思う。

何を思うのか、読者に考えさせるのだ。月の光で故郷を思うという手法は伝統的なものだ。しかし、どう思うかについては、李白の独特のものだ。李白は、悲しいとか、嘆いたりは全くしていない。冷静に、芸術的に表現しているのである。
 でも、ここでも誠意を感じられないのは私だけだろうか。
ただ、「明月」「明月 陶潜」、「明月 漢詩」等々 WEB検索してみた。李白以前の詩人としては、王維 竹里館、王昌齢 従軍行はすぐできたが、韋荘、温庭均、蘇東坡、・・・などドカッと検索出来た。李白以降の詩人が圧倒的に多い。李白の静思夜は強烈な影響を与えたということであろう。王維、王昌齢は李白の先輩ではあるが、ほぼ同時期の作品とすると、李白の静思夜は後世の詩に絶大な影響を与えたのだ。凄い詩だといことに変わりはない。


なお、日本人の好きな山水のイメージのある「静思夜」。「李太白集」には以下である。
 牀前月光,疑是地上霜。
 舉頭,低頭思故ク。

 看たものが霜に繋がる思いと月光に明るく照らしだされた情景が霜につながる思いを比較すると「看」は直接表現すぎ、「明」だと明るさの印象が残り霜に繋がって大きな思いになる。

 山月をのぞむ のは焦点がなく漠然としている。前句の月光を受けているのだから、「明月」だと月に焦点が集まり、思いのたけが倍増する。

 牀前明月光,疑是地上霜。
 舉頭望明月,低頭思故ク。

 どう見てもこの詩が断然いい。