述懐


Hht00-34
述懐
翔において粛宗皇帝に謁見し、左拾遺の官を拝命して以後、麒州の家族の安否を問い、消息がなお来なかったときのおもいをのべた作。製作時は至徳二載の夏。757年46歳

述懷
去年潼關破,妻子隔絶久。
今夏草木長,脱身得西走。
麻鞋見天子,衣袖露兩肘。
朝廷敏生還,親故傷老醜。
涕涙授拾遺,流離主恩厚。
柴門雖得去,未忍即開口。』
寄書問三川,不知家在否。
比聞同罹禍,殺戮到鶏狗。
山中漏茅屋,誰複依戸窓。
摧頽蒼松根,地冷骨未朽。
幾人全性命,盡室豈相偶。
嶮岑猛虎場,鬱結回我首。』
自寄一封書,今已十月後。
反畏消息來,寸心亦何有。
漢連初中興,生平老耽酒。
沈思歡會處,恐作窮獨叟。』

 去年撞関が破れてから、妻子とは久しくかけはなれていた。今年の夏は草木が生長するころに、賊の中からぬけだして西の方鳳翔の行在所をめがけて走りだした。幸に行在所に到著ができ、麻のわらじのまま粛宗皇帝におめみえをしたが、衣のそでは破れて両ひじが現われていた。朝廷ではこの自分がいきて戻ってきたのをおあわれみ下され、親しきもの、ふるなじみのもの等は自分の老い且つ醜きをきのどくがってくれた。おかげで自分は涙ながらに左拾遺の官をおうけした。この流浪零落の時にわが君の御恩はいかにもお厚いことである。家族の居る麒州の家の方へは若し願いでるならばゆくことはできるのではあるが、とても今すぐそんな事を口を開いて言いだすには忍びないのである。』

 自分は今また新しく手紙をや言三川廊州方面)の方の様子をたずねる、いったいわが家は現に存在しているのかどうか。このごろ聞けば、我が家も他の家同様に兵禍にかかって鶏や狗までも殺されてしまったともいう。あの山の中の雨もりのする茅屋、そこでは誰がまた以前の様に戸や隔によりそうていよう。また殺された家族どもはあのくずれくだけた松の樹の根もとに、地面は冷たくあるその下に埋められて骨はまだ朽ちずにいることであろう。今の様な時節に無事でいきながらえ得るものが幾人あろうか。どうして一家一人も欠けずうちそろうてならんで坐するなどいうことができようか。こんなことを考えて、自分はけわしい猛虎のはびこれる地方に向って、心むすぼれつつ首をふりむけてながめやる。』

 前回手紙をやった時から数えると、今は早十箇月の後である、それになんにもたよりがない。実は反ってたよりが来るのを畏れているのだ、(そのたよりは家族全滅をしらしてきはしないかと)この方寸の心は消えうせるばかりだ。今や我が唐の国運は粛宗皇帝の御即位で中興のみ代になったが、このおやじは平生、年よりながら酒にふけっている。じっと考えてみると妻や子とのうれしい会合の場合、それは夢であってこの身が貧窮孤独の老人としてのこるのではないかと恐れるのだ。


■状況と解説
 「行在所に達するを喜ぶ 三首」が鳳翔到着直後の作品であるのに対して、「述懐」はそれからひと月ほどたった五月十六日以後の作品。「述懐」はそのころの杜甫の感懐を述べるもので、はじめの十句で長安を脱出して粛宗の朝廷に参じ、左拾遺の職を授けられた喜びを述べている。 鳳翔の朝廷には旧知の者も多く、敵地から逃れてきた杜甫は歓迎されている。旅装のままで粛宗に謁見し、慰労の言葉をかけられ感動する。厳武(げんぶ)は杜甫の若いころからの理解者であった厳挺之(げんていし)の息子で、このとき粛宗朝の給事中(正五品上)の要職にあった。また賈至は譲位の詔勅を起草して房?と共に粛宗朝に参加していた詩人である。
 これら友人たちの推薦があって、杜甫は五月十六日に左拾遺(従八品上)に任ぜられる。左拾遺は門下省に属し、品階は高くありませんが、天子の側近にあって諫言と正言をすすめる清官(せいかん)ということになる。進士でもない杜甫が文士の正道をゆく官職に就いたわけですから、杜甫は感激して左拾遺の職を受けている。
しかし、?州方面へゆく人に書信を託して家族の安否を調べたが、三川県羌村からの返事はなかなか返ってこず、聞こえてくるのは?州方面は兵禍に遭って、鶏や子犬までが殺されてしまったという悲惨な噂だけ。杜甫の心配はつのり、家族は死に絶えてしまったのではないかと思う。
 書信を出してから三か月後の七月には?州の妻から返事が届き、家族全員が無事であるとわかる。


34 述懐 
    
述懐 #1 十句
去年潼関破、妻子隔絶久。今夏草木長、脱身得西走。
麻鞋見天子、衣袖露両肘。朝廷愍生還、親故傷老醜。
涕涙授拾遺、流離主恩厚。柴門雖得去、未忍即開口。

去年撞関が破れてから、妻子とは久しくかけはなれていた。今年の夏は草木が生長するころに、賊の中からぬけだして西の方鳳翔の行在所をめがけて走りだした。幸に行在所に到著ができ、麻のわらじのまま粛宗皇帝におめみえをしたが、衣のそでは破れて両ひじが現われていた。朝廷ではこの自分がいきて戻ってきたのをおあわれみ下され、親しきもの、ふるなじみのもの等は自分の老い且つ醜きをきのどくがってくれた。おかげで自分は涙ながらに左拾遺の官をおうけした。この流浪零落の時にわが君の御恩はいかにもお厚いことである。家族の居る麒州の家の方へは若し願いでるならばゆくことはできるのではあるが、とても今すぐそんな事を口を開いて言いだすには忍びないのである。』

去年  潼関(どうかん)破れ妻子  隔絶(かくぜつ)すること久し
今夏(こんか)  草木(くさき)長じ身を脱して西に走るを得たり
麻鞋(まあい)  天子に見(まみ)え衣袖(いしゅう)  両肘(りょうちゅう)を露(あらわ)す
朝廷  生還(せいかん)を愍(あわれ)み親故(しんこ)   老醜(ろうしゅう)を傷(いた)む
涕涙(ているい) 拾遺(じゅうい)を授けらる流離(りゅうり)  主恩(しゅおん)厚し
柴門(さいもん)  去(ゆ)くを得(う)と雖(いえど)も未だ即ち口を開くに忍(しの)びず

○去年天宝十五載、即ち至徳元載をさす、至徳の改元は七月である。〇億関破十五載の六月九日、寄野翰が官軍を率いて撞関を守り、賊軍にうち破られたことをいう。○隔絶作者の妻子は都州の売村に寄寓させてあった。両者の間がへだたる。○今夏至徳二載の夏。○長せがのぴる。○脱身賊軍のなかからぬけだす。○西走長安から西の方鳳翔に向かって走る。○麻軽あさのわらじ、旅装のままである。○見天子粛宗皇帝に謁見する。○見両肘そでのやぶれている故に左右のひじをあらわす。○生還いきてもどってきたこと。○親政親しい人々や、ふるなじみの人々。○傷老醜作者の老いてみにくくなったことを気のどくがる。○沸涙なみだながらに。○受拾遺拾遺は官名、供奉・諷諌を掌る。作者は至徳二載五月十六日に中書侍郎張鏑の勅命を奉じて左拾遺に任ぜられた。○流離零落のさま。○主恩天子の御恩。○柴門麒州光村にある家の門、前に「柴門老樹ノ村」とあった柴門と同じ。○去そこへゆくことをいう。○即開口すぐにロを開
いてそのことを言いだす。

#2 
寄書問三川,不知家在否。比聞同罹禍,殺戮到鶏狗。
山中漏茅屋,誰複依戸窓。摧頽蒼松根,地冷骨未朽。
幾人全性命,盡室豈相偶。嶮岑猛虎場,鬱結回我首。』

自分は今また新しく手紙をや言三川廊州方面)の方の様子をたずねる、いったいわが家は現に存在しているのかどうか。このごろ聞けば、我が家も他の家同様に兵禍にかかって鶏や狗までも殺されてしまったともいう。あの山の中の雨もりのする茅屋、そこでは誰がまた以前の様に戸や隔によりそうていよう。また殺された家族どもはあのくずれくだけた松の樹の根もとに、地面は冷たくあるその下に埋められて骨はまだ朽ちずにいることであろう。今の様な時節に無事でいきながらえ得るものが幾人あろうか。どうして一家一人も欠けずうちそろうてならんで坐するなどいうことができようか。こんなことを考えて、自分はけわしい猛虎のはびこれる地方に向って、心むすぼれつつ首をふりむけてながめやる。』

書を寄せて三川(さんせん)に問うも家の在るや否(いな)やを知らず
此(このご)ろ聞く 同じく禍(わざわい)に罹(かか)りて殺戮 鶏狗(けいく)に到ると
山中の漏茅屋(ろうぼうおく)誰(たれ)か復(ま)た戸?(こゆう)に依(よ)らん
蒼松(そうしょう)の根に摧頽(さいたい)すとも地(ち)冷やかにして 骨未だ朽ちざらん
幾人か性命(せいめい)を全うする室(しつ)を尽くして 豈(あに)相偶(あいぐう)せんや
?岑(きんしん)たる猛虎の場(じょう)鬱結(うつけつ)して我が首(こうべ)を廻(めぐ)らす

○寄書手紙をやる。〇三川部州地方のことで蒐村の方をいう。○家在香自分の家が存在しているかどうか。○同罷禍自分の家も他の家と同じく兵禍にかかった。○穀教ころす。○到鶏狗鶏や狗までも。○山中漏茅屋漏茅屋は雨のもれるかやぶきの家。○依戸備戸やまどによりそって立つ。○推頚くだけ、くずれる。○地冷骨未朽此の句は作者が今造かに殺致されたと想像している家族について其の死の尚お久しからぬことをいう。特に「赴率先県詠懐」詩中の餓死した幼児などについていうのであろう。旧解は多く一般の死者をいうとなすが今は取らぬ。○全性命無事にいきながらえる。○尽室一家全体かけることなく。○相偶 偶とはならんで坐ることをいう。○巌卑琴は或は釜に作る。巌峯は山のけわし103いさま。○猛虎場盗賊のはびこる地をいう、即ち麒州の方をいう。○鬱結心のむすぼれること。○廻我首 麒州の方へと首をふりむ

#3
自寄一封書,今已十月後。反畏消息來,寸心亦何有。
漢連初中興,生平老耽酒。沈思歡會處,恐作窮獨叟。』

前回手紙をやった時から数えると、今は早十箇月の後である、それになんにもたよりがない。実は反ってたよりが来るのを畏れているのだ、(そのたよりは家族全滅をしらしてきはしないかと)この方寸の心は消えうせるばかりだ。今や我が唐の国運は粛宗皇帝の御即位で中興のみ代になったが、このおやじは平生、年よりながら酒にふけっている。じっと考えてみると妻や子とのうれしい会合の場合、それは夢であってこの身が貧窮孤独の老人としてのこるのではないかと恐れるのだ。

一封の書を寄せし自(よ)り
今は已(すで)に十月の後(のち)なり
反(かえ)って畏(おそ)る  消息の来たらんことを
寸心(すんしん)  亦(ま)た何か有らん
漢運(かんうん)  初めて中興し
生平(せいへい)  老いて酒に耽(ふけ)る
歓会(かんかい)の処(ところ)を沈思(ちんし)し
窮独(きゅうどく)の叟(そう)と作(な)らんことを恐る

〇一封書一通の手がみ。〇十月後十か月の後、此の詩の作が何月にあるかは不明であるが、左拾遺の任命が五月十六日、後の「北征」の詩が閏八月初音であるのによって推すときは、其の中間に在ってしかも任官後あまりほどとおからぬときであろう。仮りに六月頃とすればその十か月以前は前年の九月頃となる。○消息麒州の妻子からのたより。○寸心むねのうち、中国人は心のはたらきを一寸四方の心臓に在るとかんがえていた。○亦何有なにもないことをいう、心も消えうせるばかり。○漢運唐の国運をいう。○初中興初めて興るにあたる、粛宗皇帝の即位されたことをさす。○生平平生と同じ。○沈思ふかくかんがえる。○歓会処よろこんで一家族会合する場合のこと。○窮独里貧窮で単独な老人。家族どもがみな殺されてしまったのでかくなったのである。