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岳飛(がくひ) |
1103〜1141 |
相州湯陰(河南)の出身。字は鵬挙。農民の出で、北宋末の義勇軍召募に応じて宗沢に認められ、軍功を重ねて1133年に“精忠岳飛”の宸筆の旗を下賜され、翌年には清遠軍節度使とされ、崇信軍節度使・武昌郡開国侯に進んだ。湖北路・荊襄の制置使とされて金軍をことごとく撃退し、1140年には東京副留守の劉リを支援して宗弼を大破すると開封に迫ったが、和平を急ぐ秦檜によって1日12使の金字牌を送られて已むなく撤退した。
当時、岳飛の軍(岳家軍)は最強の精鋭として知られ、開封を堅守した宗沢とともに金軍から“爺々”の尊称を受けた唯二人で、“山を動かすは易く、岳家軍を動かすは難し”とも評された。当時の軍閥は官僚と不和で、軍閥間でも対立があり、年少で矜持の強かった岳飛は孤立気味で、これに乗じた秦檜によって1141年に枢密副使とされて軍を解体され、同年、和平交渉の為に冤罪で獄死させられた。1178年に武穆と諡名され、1204年には岳王と追封され、後に岳王廟に祀られて1914年以降は関羽とともに武廟に合祀された。
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滿江紅 題新淦蕭寺壁 送紫岩張先生北伐 題青泥市寺壁 池洲翠微亭 送紫岩張先生北伐 滿江紅 小重山 |
652 |
呂祖謙(りょそけん) |
1137〜1181 |
呂 祖謙(りょ そけん、1137年 -1181年)は、中国南宋時代の儒学者。字は伯恭。東?先生と称される。?州(浙江省金華県)の出身。学者の家に生まれ林之奇・汪応辰・胡憲などに学ぶ。1163-64年に進士となり、同時に博学宏詞科にも合格する。太常博士に國史院編修官・実録院検討官となり、領土の回復を孝宗に説き聖学について論じ、『徽宗実録』では政治についても述べている。当時出版界では『聖宋文海』という誤謬の多い書が出回っており、孝宗が臨安府にこの本の校正・刊行を命じたところ、学士・周必大はその事業が困難であると説いたが呂祖謙は仕事を完成させ、『皇朝文鑑』の名を賜った。1178年に官著作郎に任命され、国史院編修官を兼ねていたが、その年に54歳で没する。同時代の張?・朱子を友とし、東南の三賢と並び称された。博識で文辞が豊かであり、詩書春秋では古義を究め、十七史に通じていた。朱熹と対立する学説を主張する陸象山とを仲介し、対論させた(鵝湖の会)。
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張軾(ちょうしょく) |
1133- 1180 |
張?(ちょう・しょく、1133年 -1180年)は中国・南宋の儒学者・政治家。字は敬夫、または楽斎。南軒先生と称せられる。広漢(四川省)の出身。宰相・張浚の子として生まれ、将来の大儒を目指して胡宏(五峰)に学ぶ。初めは直秘閣に任じられ、その後は地方官を歴任し、中央に戻ってからは吏部侍郎から右文殿修撰になった。金に対して主戦論を保持し、たびたび国防・民政に関する上奏を奉じ、宰相・虞允文からは疎まれたが孝宗の信任は厚かった。王夫之は『宋論』のなかで張?を「古今まれに見る大賢ではあるが、王安石以来の人材迫害・言論弾圧に懲りて世間を離れることに努め、才能を振るおうとしなかった」と惜しんでいる。張?の学問は、二程(程・程頤)を承け、朱熹との交友で発達した。『論語』『孟子』の解釈で見るべきものがある。著として『南軒集』44巻、『南軒易説』・『伊川粋言』・『癸巳論語解』・『癸巳孟子説』がある。
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陸象山 |
1139〜1192 |
陸象山(りく しょうざん、1139年 - 1192年)は、南宋の儒学者・官僚。名は九淵、字は子静。象山は号。江西省金谿の人。朱子と同時代に生き、その論敵として知られる。その一族はおよそ二百年間にわたり何世代もが同居することで有名であり、時の王朝より義門(儒教的に優れた一族)として顕彰された。象山の兄二人も著名な学者で兄弟を三陸と称することもある。進士に及第後地方官・中央官として経験を積んだ。49歳の時、江西省の応天山に私塾をひらき、そこで講学を行ったが、その数年後肺結核のため世を去った。
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朱熹(朱子) |
1130〜1200 |
宋代(南宋)の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。「朱子」の尊称で呼ばれている。儒教の体系化を図った儒教の中興者で朱子学の創始者である。朱子学やその後、明の時代に学問部分が国教と定められた。また、日本にも輸出されて江戸時代には幕府も朱子学を尊重した。
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勸學文 偶成詩 |
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陸游 |
1125〜1209 |
越州山陰(浙江)の出身。字は務観、号は放翁。夙に文才を賞揚されていたが、科挙で秦檜の一族の上位にあったために憎まれて及第できず、官人としては不遇だった。秦檜の死後に同進士を賜り、46歳で王炎の推挙で通判として入蜀し、後に宰相の周必大に認められてより要職を歴任したが、しばしば韓?胄と衝突して左遷された。四川では范成大と交流し、晩年には修史事業に参画して孝宗・光宗実録を完成させ、1190年以降は故山に隠棲した。蜀に赴任する際に記録した158日間の旅行記は後に『入蜀記』として全6巻に編纂され、風物のみならず歴史評論にも及び、名著と評されている。 |
示兒 十一月四日風雨大作 金錯刀行 秋夜將曉出籬門迎涼有感 書憤 塞上曲 北望 劍門道中遇微雨 |
關山月 古意 遊山西村 病起書懷 灌園 感事 龍興寺弔少陵先生寓居 樓上醉歌 隴頭水 追感往事 書事 秋興 識識 夜讀范至能攬轡録言中原父老見使者多揮涕感其事作絶句 春游 小舟遊近村捨舟歩歸 秋風亭拜寇莱公遺像 山南行 客從城中來 聽雨 望江道中 小園 其三 貧甚戲作絶句其六 秋懷 書事 春晩懷山南 村飲示鄰曲 沈園二首其一 沈園二首其二
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唐婉 とうえん |
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南宋第一の詩人といわれる陸游(1125—1209)と彼の最初の妻唐?とのロマンスは中国では広く知られた物語である。陳舜臣の「中国の歴史」参照
陸游は20歳のとき母方の縁につらなる唐?と結婚した。夫婦仲は睦まじかったが,なぜか唐?が陸游の母親から嫌われ(一説には,夫婦仲がよすぎたからとも,またこどもが出来ず,それについてうそのつげ口をされたからともいわれる),1年ほどで離縁させられてしまった。内緒で家を借り隠れて逢っていたが,それも母親の見つかるところとなり,以後会うことができなくなった。やがて唐?は宋の帝室につながる趙士程に再嫁,陸游も王氏と再婚した。
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釵頭鳳の返歌 山盟(堅い誓い)在ると雖も |
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辛棄疾(しんきしつ) |
1140〜1207 |
政治家・詞人。字は幼安、号は稼軒(かけん)、歴城(現在の山東省済南市)の人。
歴城(山東)出身。字は幼安、号は稼軒。華北に住し、采石磯の役での金軍の動揺に乗じて挙兵すると初めは耿京に従い、耿京が張安国に殺されると安国を捕えて宋に帰順し、承務郎とされた。孝宗期には各州知事を、後に湖北・江西・湖南の安撫使を歴任し、任地の治安民政を安定させた。主戦論者だったために和平派の弾劾で罷免され、まもなく浙東安撫使・鎮江知府に任命されたが、勅使到着前に歿した。朱熹とも親交があり、朱熹の歿した際には偽学の禁を冒して追悼・埋葬した。政治家としては大成しなかった辛棄疾であるが、文人としては名声を博し、金に対抗し宋による故地回復を願った文章を数多く残している。また様々な題材での詞・漢詩も残しており『稼軒集』などが現在に伝わっている。北宋の蘇軾と並び「蘇辛」と称されることもある。検索エンジン「百度」の社名は、彼の作品『青玉案』に由来。
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菩薩蠻
書江西造口壁 |
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戴復古(たいふくこ) |
1167〜不詳 |
戴復古:南宋1167年〜(没年不詳)の詩詞人。字は式之。号は、故郷の南塘の石屏山に隠棲したことに因み、石屏と称する。天台黄岩(現・浙江省)の出身。江湖派の詩人として有名。
江湖派とは、南宋中期、後期の詩歌流派の一で、進士試験の落第生や野にある知識人で、「江湖を流離った人々」の意の流派。時の中央の詩壇に対して、下層社会(江湖)の中に出来あがった下層知識人の詩壇。その名の由来は、陳起が江湖(世間)の作品を集めて『江湖集』をはじめとして、『江湖×集』『江湖○集』という風に、出版を続けたことによる。
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江陰浮遠堂 柳梢 |
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周密(しゅうみつ) |
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南宋の文学者。字は公謹。号して草窓、泗水潜夫…。官は義烏令。済南(現・山東省・済南)の人。宋の南渡(南宋)後、湖州の呉興(現・浙江省・呉興)の滅亡後、節を守って仕官しなかった。1232年〜1298年。『絶妙好詞』などを遺す。
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秋日即事 |
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陳亮 (ちんりょう) |
1143〜1194 |
中国、南宋の思想家・文学者。永康(浙江(せっこう)省)の人。字(あざな)は同甫(どうほ)。号、竜川(りゅうせん)。孝宗のとき、金との和議に反対する「中興論」を上奏したが採用されず、帰郷。経世済民のための学を主唱して朱熹(しゅき)と議論を交えた。著「竜川文集」「竜川詞」。 |
水調歌頭 送章コ茂大卿使虜 |
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杜秉(とへい) |
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寒夜 |
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張元幹(ちょうげんかん) |
1091年〜不明 |
両宋期の豪放な作風の詞人(1091年〜不明)字は仲宗、号は葦川居士。長楽(現福建内)の人。対金主戦論者で、媾和に反対し、やがて退けられる。
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賀新郎
石州慢 |
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張孝祥(ちょうこうしょう) |
1132〜1169 |
:南宋の愛国詞人。(1132〜1169)字は安國、号は于湖居士。歴陽烏江の人。本を一度読んだだけで覚えた、という伝説の持ち主で、廷試(科挙の最高考査)第一となる。官吏として歴任し、対金主戦論で退けられる。詞は、高らかに民族の情を歌い上げているものが多い。三十八歳で亡くなる。
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六州歌頭 |
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眞山民(しんさんみん) |
1274頃 |
眞山民については,詳しいことは分からないらしい。南宋末から元にかけて生存したと伝えられる隠者。詩集が残る以外全く分からない。姓名も不明で,山民と自称し,南宋の儒者眞徳秀(1178−1235)の子孫らしいというので,眞山民と呼ばれる。1274頃
中国宋末の進士で哲学者である。名は桂芳(けいほう)といい、出身地などくわしいことはわからない。宋末の遺民で世を逃れ、人に知られることを求めず、自分で山民とよぶ。歐陽修、朱熹、蘇東坡と共に宋代の代表的詩人といわれ、特に敍景詩にすぐれている。
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山中月
錢塘懷古 |
666 |
楊萬里 |
1127〜1206 |
吉州吉水の出身。字は延秀、号は誠斎先生。紹興24年(1154)の進士。光宗・熹宗の近侍官を歴任し、朱熹ら60余人の人材を勧めたが、晩年は韓?冑と対立して寧宗に忌避された。詩人としては南宋四大家の1人で、はじめは江西派の詩を学び、後に誠斎体と呼ばれる独自の詩風を確立した。
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夏夜追涼 |
667 |
劉克莊 |
1187〜1269 |
南宋末期の江湖派の詞人。1187年(淳煕十四年)〜1269年(咸淳五年)。字は潜夫。号は後村居士。福建・田の人。建陽の県尉となり、その才で、進士待遇となる。
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滿江紅 玉樓春 賀新カ |
668 |
文天祥(ぶんてんしょう) |
1236〜1282 |
吉水(江西)出身。字は宋瑞・履善、号は文山。宝祐4年(1256)の科挙に状元で及第した。1259年のモンゴルの四川侵攻の際、遷都派を弾劾して罷免され、後に起用された時も賈似道を嫌って下野した。1274年に復官し、モンゴル軍の南征に対し義勇軍を組織して各地を転戦し、後に右丞相・枢密使に抜擢されて講和使節とされたが、才気を惜しまれて拘留された。臨安陥落後に脱走して益王に合流したが、陳宜中らと不和となって江西地方を転戦中に再びモンゴル軍に捕われ、大都にではフビライの説得にも最後まで臣従を拒み、在獄3年で処刑された。著名な『正気の歌』は獄中の作。
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過零丁洋
?江月 |
669 |
謝枋得 |
1226〜1289 |
信州弋陽(江西)の出身。字は君長、号は畳山。宝祐年間に進士に合格したが、辞退して賈似道を弾劾した。後に宋朝回復の計に失敗して福建でモンゴル軍に捕われ、臣従を拒んで北京で絶食死した。 南宋の政治家。弋陽(よくよう)(江西省)の人。字(あざな)は君直。号は畳山。元との戦いに敗れて捕らえられたが節を曲げず、絶食死した。著「文章軌範」。
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初到建寧賦詩 |
670 |
海陵王・完顏亮 |
480〜494/494 |
第四代君主。諱は昭文、字は季尚。鬱林王の次弟。鬱林王の即位により新安王とされ、翌年に鬱林王が廃されると蕭鸞(明帝)に迎立されたが、冬には廃弑された。 |
呉山 |