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3.  山行   
4.  清明 
5  赤壁 
6  寄揚州韓綽判官  
7.  遣懷
 8  贈別 其一 
 9  贈別 其二
10金谷園 
11  過華清宮絶句 
12  南陵道中  
13 贈漁父
14  題烏江亭  
15  秋夕  
16  念昔游  
22春日茶山病不飲酒因呈賓客
23  九日齊山登高



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長安の二月、香塵こうじん多し
六街りくがいの車馬、声鈴凛。
家家かか楼上、花の如き人
千枝万枝、紅艶新たなり
簾間れんかんの笑語、自ら相問う
「何人ぞ占め得たる長安の春」と
長安の春色、本もと主無し
古来、尽ことごとく属す、紅楼の女
如今ただいま、奈いかんともする無し杏園の人
駿馬軽車、擁し将もちて去る


大雁塔
歴代の王朝が都を定めた長安。その長安で古都の雰囲気を演出しているもののひとつに大雁塔があります。塔は現在の西安の東南郊外慈恩寺境内にあります。
 慈恩寺は648年、唐の第三代皇帝高宗李治が亡くなった母、文徳皇后の慈恩を追慕して建立した寺で、高宗の皇太子時代に立てられました。当時の慈恩寺は僧房1897室、僧侶300人が集まっていました。しかし、唐代末期、戦乱のため焼き払われ、今の大きさは昔の十分の一に過ぎません。現在の境内にある当時の建物は大雁塔だけですが、塔の前方には明代と清代の建物が残っています。


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長安の春 韋荘と都長安


長安の春 韋荘

当時、長安は人口120万にを超す世界最大級のとしでした。


長安の春」 韋荘
  
長安二月多香塵、六街車馬聲鈴凛。
家家楼上如花人、千枝萬枝紅艶新。
簾間笑語自相問、何人占得長安春。
長安春色本無主、古来盡屬紅樓女。
如今無奈杏園人、駿馬輕車擁将去。



 長安は旧暦2月、春の盛りの大賑わい、都の大通りには、車馬が音を立てて行きかう。家々には、花も恥じらう乙女たちが集まり、木々の枝にはほころんだ蕾のように艶めかしい。
 簾の中で笑い、ざわめき、長安の春はわたしのためにあるとばかりに自慢顔。
 長安の春は、皆のもののはずだが昔から、高殿の乙女たちの独り占め。
 それでも今日だけは彼女たちもどうしようもない。杏園に向かう人たちが軽快な馬車で春を連れ去ってしまうのだから。

 7世紀に建立された大雁塔は古き良き長安の姿を今も残します。
この詩の杏園は大雁塔の皆々あった庭園です。
 春、都では官僚になるための試験、科挙に合格した者たちの祝宴が開かれます。貴族たちの家々は合格者に解放され、無礼講。庭の花を競い、酒を競い、華やかな歌舞に宮廷料理、宴は賑やかに行われます。科挙に合格した者だけがわが世の春を謳歌します。
 この日だけは、華やかな高殿の若き乙女たちも主役の座を譲ります。この試験のために全国から若者が集まってきます。何年もかかってやっと合格するもの、どうしても及第しないもの悲喜こもごもの日なのですが、長安のにぎわいを詠った有名な詩です。
 作者韋荘も合格した一人ですが、合格後しばらくして唐王朝は滅亡します。
 この詩は、絢爛たる輝きを見せた長安最後の姿かもしれません。




■ 韋荘 (いそう)836〜910晩唐の詩人。字は端己。
杜陵(現・陝西省西安附近)の人。字(あざな)は端己(たんき)。杜陵(陝西省西安)の人。温庭均(おんていいん)とともに唐五代の詞を代表する
・唐末の都の荒廃をうたった長編の七言古詩「秦婦吟」が有名。

・秦婦吟  金陵圖(江雨霏霏江草齊)   古別離(晴煙漠漠柳??)   題酒家(酒拷ヤ紅客愛詩)




上記、唐の詩人、韋荘いそうの長編詩の巻頭にみる如く繁栄を誇った「長安」も紀元前221年、初めて戦国乱世に終止符を打ち全中国を統一した、秦の始皇帝に始まっている。


■ 長安をめぐる
 秦王朝の首都「咸陽」は渭水の北岸にあった。現在の咸陽市であえる。始皇帝は更に空き地の多い南岸を開発し「阿房宮」を中心とする壮麗な離宮を建造した。この「渭水」南岸地域が以後の長安の基礎となった。

そればかりではない、同時に死後の離宮の意味で陵みささぎを造営したのが、2000年以上の時を経て、現在我々が接することの出来る始皇帝陵であり兵馬俑なのである。

始皇帝の死後、「咸陽」は徹底的に破壊されたが、南岸の離宮は破壊を免れた。紀元前202年、項羽を滅ぼし天下を統一した前漢(前208年〜後8年)の高祖、劉邦は、この南岸の離宮を基盤にして新首都を築き「長安」と名付けた。

以後、後8年、王莽おうもうに滅ぼされるまで前漢の首都であり続けた。王莽の敗死後、前漢の一族劉秀が光武帝として後漢の王朝を立てるが、後漢は首都を「洛陽」に定め、以後「三国時代」の魏王朝(220年から265年)、次いで中国全土を統一した「西晋王朝」(265〜316)に至るまで約300年間、洛陽が首都、長安が副都として機能したに止まった。

長安が生まれ変わり、再び首都として復帰したのは、それから270年後の隋王朝の時代である。因みに、4世紀初め西晋滅亡後、中国は南北に分裂、南部を漢民族の王朝(南朝)が、北部を異民族の王朝(北朝)が支配する状況が続く。
北朝系の隋王朝の創始者、文帝(楊堅)は581年、南朝最後の王朝陳を滅ぼして分裂状態を終息させ、中国全土を統一した。

文帝は北朝の前王朝北周を滅ぼし、隋を創設した翌年の開皇2年(582)、前漢の旧都を受け継いだ北周の首都、長安を破壊し、その東南に整然とした都市計画に基ずき新首都を建設、「大興」と名付けた。

隋は第2代皇帝煬帝の失政が祟り、短期間で滅亡したけれども、文帝の建造した大興は、次なる唐王朝に受け継がれ、唐の首都「長安」として、華々しい発展を遂げる。



唐代、長安が最も栄えたのは、絶世の美女楊貴妃との恋で知られる、第6代皇帝玄宗(685〜712)の時代である。当時、長安の人口120万、多くの留学生や商人が滞在する、絢爛たる国際都市であった。その中には空海や安部仲麻呂など日本からの留学生も含まれていた。当時の華やぎは冒頭の詩「長安の春」で想像出きるでしょう。

現在の西安は唐の長安の一部だが、市内に聳える大鴈塔、郊外の華清池や乾陵(玄宗の祖父母、高宗と則天武后の陵)等々無数の旧跡によってその栄華を偲ぶことが出来る。
このように、西安(長安)は始皇帝の時代から輝ける唐の時代を経て現在に至るまで、悠久の歴史を内包した稀有の歴史都市である。


  大雁塔

  慈恩寺 大雁塔

歴代の王朝が都を定めた長安。その長安で古都の雰囲気を演出しているもののひとつに大雁塔があります。塔は現在の西安の東南郊外慈恩寺境内にあります。
 慈恩寺は648年、唐の第三代皇帝高宗李治が亡くなった母、文徳皇后の慈恩を追慕して建立した寺で、高宗の皇太子時代に立てられました。当時の慈恩寺は僧房1897室、僧侶300人が集まっていました。しかし、唐代末期、戦乱のため焼き払われ、今の大きさは昔の十分の一に過ぎません。現在の境内にある当時の建物は大雁塔だけですが、塔の前方には明代と清代の建物が残っています。







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