http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/     http://kanbun-iinkai.com     http://3rd.geocities.jp/miz910yh/     http://kanbuniinkai7.dousetsu.com http://kanbuniinkai06.sitemix.jp/   http://kanbuniinkai.web.fc2.com/ http://kanbuniinkai12.dousetsu.com/   http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/

九日藍田崔氏荘


九日藍田崔氏荘


44.九日藍田崔氏莊
老去悲秋強自ェ,興來今日盡君歡。
羞將短發還吹帽,笑倩旁人為正冠。
藍水遠從千澗落,玉山高並雨峰寒。
明年此會知誰健?醉把茱萸仔細看。
陰暦九月九日重陽の菊の節句の日に藍田県の棲氏の別荘において作った詩。藍田は長安の南にある県の名、華州より八十里ばかりへだたる、乾元元年華州司功であったときの作。(汾州に左遷される)
乾元元年 758年 47歳

杜甫102九日藍田崔氏荘(老去悲愁強自寛)       

九日藍田崔氏荘

老去悲愁強自寛、興来今日尽君歓。

羞将短髪環吹帽、笑倩旁人為正冠。

藍水遠従千澗落、玉山高並両峰寒。

明年此会知誰健、酔把茱萸子細看。


自分はだんだん年老いて悲しき秋にあたって無理に胸の内を寛ごうと思って、今日は興のわくままに十分に君が奉げてくれる歓情を受け尽くした。はずかしいことには老いの短い髪の毛ながらにまた昔の孟嘉扱いにして風が帽子を吹きおとすし、脇の人に頼んで其の帽のかぶり具合をきちんと治しても羅うなどは自分ながらおかしい。荘外をながめると、多くの谷間の水を集めて遠くそこから藍水が落ちてくるし、玉山はその二つの峰が高くならんで寒色をたたえている。今日は主賓と共にこんなにおもしろく過ごせたが、さて明年のこの会には、果たして誰が変わりなく達者でいるであろうか、それをおもうて自分は酔いながら茱の枝を手にして詳しく眺めいるのである。



九日藍田崔氏荘

老去悲愁強自寛、興来今日尽君歓。:老い去って悲秋に強いて自ら寛(ゆる)うす、興来って今日君が歓を尽くす

(自分はだんだん年老いて悲しき秋にあたって無理に胸の内を寛ごうと思って、今日は興のわくままに十分に君が奉げてくれる歓情を受け尽くした。)

○悲秋 ものがなしい秋の節、「悲レ秋」とよんでもよい。 〇自寛 自己の愁懐をくつろげ、なぐさめる。○尽君歓 他人が私を喜ばそうとしたとき、八分を受け二分を残すのが君子の礼とされるが、ここでは先方の歓待を十分に受け尽くすことをいう。君は主人雀氏。



羞将短髪環吹帽、笑倩旁人為正冠。:羞(はず)らくは短髪を将て還帽を吹かるるを、笑う傍人を倩(やと)うて為めに冠を正すことを。

(はずかしいことには老いの短い髪の毛ながらにまた昔の孟嘉扱いにして風が帽子を吹きおとすし、脇の人に頼んで其の帽のかぶり具合をきちんと治しても羅うなどは自分ながらおかしい)

○短髪 作者の老いてみじかくなったかみのけ。○還 我もまたの意。○吹帽 晋の孟嘉が桓塩の参軍となり、九日に竜山に遊んだとき、たまたま風が吹いてきて孟嘉の帽を吹き落としたが、嘉はおちついて拾ってまたかぶったという。杜詩には風をいわずにただちに「吹」ということが往々ある。○傍人 そばのひと。○為 我がために。○正冠 冠は即ち上旬の帽、正とはまがらぬようになおすこと。



藍水遠従千澗落、玉山高並両峰寒。:藍水遠く干潮より落ち、玉山高く並びて両峰寒し。

(荘外をながめると、多くの谷間の水を集めて遠くそこから藍水が落ちてくるし、玉山はその二つの峰が高くならんで寒色をたたえている。)

○藍水 藍田にある川の名。〇千澗 多くのたにま。○玉山 藍田にある山の名、即ち藍田山。○両峰 予は玉山に属する二つの峰かとおもう。旧解は両峰を玉山と別物とし、その両峰をば或は華山及び秦山とし、或は華山の東北にある雲台山の両峰とする。別物とするときは玉山高並は「玉山と高く並びて」とよむべきである。

明年此会知誰健、酔把茱萸子細看。:明年此の会知らず誰か健(けん)なるを、酔うて茱萸(しゅゆ)を把(と)りて子細(しさい)に看(み)る

(今日は主賓と共にこんなにおもしろく過ごせたが、さて明年のこの会には、果たして誰が変わりなく達者でいるであろうか、それをおもうて自分は酔いながら茱の枝を手にして詳しく眺めいるのである。)

○知誰健 知の下に疑問詞があるときは「知」は「不知」の義となる、即ち不r知誰健の意、古来「知る」とよますが其の義をなさぬ。○某実 ぐみ、九日にぐみを凧び菊酒をのめば長生をするとされる。沈徳潜は栗東を酒の名とする。○仔細 くわしく。○看 蓋し菜糞の枝をみつめる。古来多くこの義にとく。沈徳潜は栗東をみることの無意味なことをいい藍水と玉山とを看ることとする、即ち「酒を把って山水をみる」ととく。但し、果菜をみるとするのは決して無意味ではなく、上旬に「誰健」とあって主賓の健康を意としての語であるから長寿のしるしである美東を仔細にみるのは却って意が深い。

動乱、政変、諫言、左遷

唐朝の衰退はかなりなもので、どこで反乱が起こってもおかしくないし、外敵に攻められても、府兵の統率力はなかった、しかも、杜甫の知人の官僚、幕僚も次々に、左遷、降格、死没と中央集権国家の体をなさず、長安周辺の朝廷と言うくらいに力のない、先行き不安な状況であった。杜甫が冠を直すと詠むとき、朝廷の威信がそこまであるのかと思いながら正しているのです。



九日 藍田の崔氏の荘

老い去(ゆ)きて悲愁(に強(し)いて自ら寛(ゆる)うし

興(きょう)来たりて今日ぞ君の歓(よろこ)びを尽くす

羞(は)ずらくは短髪を将(もっ)て環(な)お帽を吹かるるを

笑いて旁人を倩(やと)いて為に冠(かんむり)を正さしむ

藍水(らんすい)は遠く  千澗(せんかん)従(よ)り落ち

玉山(ぎょくざん)は高く 両峰(りょうほう)を並べて寒し

明年(みょうねん) 此の会 知らず 誰か健(けん)なるを

酔うて茱萸(しゅゆ)を把(と)りて子細(しさい)に看(み)る




 秋になって九月九日の重陽節に、杜甫は崔氏の藍田の別荘に招かれました。主人の崔李重(さいりじゅう)は杜甫の母方の一族ではないかと見られています。藍田は華州からだと西南に60kmほどの道程ですので、杜甫は馬で出かけたでしょう。

 この詩については吉川幸次郎著『杜甫ノート』に詳しい評釈がありますので、ご存知の方が多いでしょう。首聯と頷聯には杜甫の屈折した心情が巧みに詠われています。「羞ずらくは短髪を将て環お帽を吹かるるを」は東晋の孟嘉の故事を踏まえており、頭髪も薄くなった自分を風流人の孟嘉に例えるのも気恥ずかしいが、と苦笑いしながら、かたわらの人に冠のゆがみを直してもらうのです。

 「玉山」は藍田山のことで、硬玉を産することから玉山といいました。崔氏の別荘の西隣りには王維の?川荘があり、王維はそのころ乱後の処罰を受けた身をはばかって別荘に出入りせず、門は固く閉じられたままであると、杜甫は別の詩で詠っています。



1013崔氏東山草堂
 
前詩の崔氏と同じく藍田の崔氏であり、東山は藍田県の東南にある藍田山、即ち玉山であり、草堂はかやぶきの堂である。此の堂は前詩の別荘とは異なるものである。此の詩は崔氏の東山の草堂において作る。前詩と同時期の作。

崔氏東山草堂
愛汝玉山草堂靜,高秋爽氣相鮮新。
有時自發鐘磬響,落日更見漁樵人。
盤剥白鴉谷口栗,飯煮青泥坊底蓴。
何為西莊王給事,柴門空閉鎖松均。

自分は深く愛す、君のこの玉山の草堂は聞静であって、秋の爽かな気と山の色とがたがいに新鮮をきそうておる様であることを。また時としては近い寺ででもならすのか鐘や磐のおとがひとりでにおこってくるし、日の落ちかかるときそのうえ漁夫樵人らがかえりゆくのをみることができる。また食物についてみると、大きな皿には白鴉谷のほとりでとれた栗が皮をむいて盛りだされ、ご飯にまぜては青泥坊でとれた蓴采が煮られる。ここへ西どなりの王維でも居るといっそういいのだが、どうしたためか彼の別荘はいたずらに柴門が閉じられて松竹林中にかぎをおろしてある。


(崔氏が東山の草堂)
愛す汝が玉山草堂の静かなるを、高秋の爽気相鮮新
時有ってか自ら発す鐘磬の響、落日更に見る漁樵の人
盤には剥ぐ白鴉谷口の栗、飯には煮る青泥坊底の蓴(じゅん)
何為ぞ西荘の王給事、柴門空しく閉じて松均に鎖す

崔氏東山草堂
愛汝玉山草堂靜,高秋爽氣相鮮新。:愛す汝が玉山草堂の静かなるを、高秋の爽気相鮮新
○玉山 すでにみえる。○高秋 天たかき秋。○爽気 さわやかな気。○相鮮新 鮮新は新鮮に同じ、あたらしくあざやか。相とは蓋し山色に関していう、山色の翠と秋気の澄碧とがたがいにその新鮮をきそうことをいう。

有時自發鐘聲響,落日更見漁樵人。:時有ってか自ら発す鐘磬()しょうけいの響、落日更に見る漁樵の人
○発 おこる。○鐘磬響 かね、磬磐石の音、これは附近に寺があるのであろう。○漁樵人 魚をとる人、薪や柴をとる人。

盤剥白鴉谷口栗,飯煮青泥坊底蓴。:盤には剥ぐ白鴉(はくあ)谷口(こくこう)の栗(りつ)、飯(はん)には煮る青泥坊底の蓴(じゅん)
○盤 大きなさら。〇割 皮をむくこと。〇日鶉谷 県の東南二十里にある谷の名、栗によろしい地であるという。○青泥坊 坊は防と通ずる、「つつみ」をいう、青泥城は県南七里にあるというのからすれば防はその城の水をたくわえるつつみである。○蓴 沈徳潜の説に芹(きん)は十二文の韻字であるから蓴の字の誤りであろうという、芹はせり、蓴はじゅんさい。

何為西莊王給事,柴門空閉鎖松??:何為ぞ西荘の王給事、柴門空しく閉じて松?に鎖す
○西荘 雀氏草堂の西にある別荘。 ○王給事 王経のこと。王維は宋之間の藍田の別聖を得て住んだ。即ち綱川荘である。粛宗が長安に還るや経は太子中允となり、また給事中となった、このとき経は長安にあって荘にいなかった。 ○柴門 王経の荘の柴でつくった門。 ○鎖松? ?は竹の膚の青色をいうが竹そのものの義として用いる。松?に鎖すとは松竹の林の中にとざすことをいう。(尾二句については作者が王維に早く仕をやめてかえるべきことを諷したとの説があるが予は取らぬ。ただたまたま維の不在を見て維を思う情をのべたものとみる)
たまたまではない。この詩も宋だし、このころの詩のほとんどに朝廷荷対する不満が語られています。
このとき王維も杜甫も、朝廷に嫌気がさしていました。わけのわからない人事、宦官の台頭、軍事組織の崩壊、このころ、詩人たちは、行き場のないところに追い詰められていた。杜甫の知人の官僚、幕僚、軍人は降格か左遷されている。朝廷は体制を整えることより、権威を振りかざした。節度使の忠誠心はなく、ただ、安禄山それに変わる安慶緒、忠思明、が他より少しだけ抜けているだけで安定した力はない。したがって叛乱はこのあと5,6年治まらない。これに外敵からの挑発が盛んになされます。経済的にも律令体制が機能しなくなり、貿易でも不平等なものが多く、朝廷の財政を悪化させている。
詩人のほとんどは高級官僚です、これらに批判的でないはずがありませんが、朝廷の無作為に対する批判勢力の配置転換、長安を奪還して以降の数年は朝廷は疑心暗鬼の塊です。
かといって、それらを文章で残すと発見されると処刑されました。

乾元元年の春は左拾遺として長安にあり、賈至・王維・岑參らと唱和と、詩人たちの意見交換は最高潮でした。5,6月、高適、房?の左遷、杜甫自らも左遷、すべての詩人は、疎まれていきます。

六月、房官の汾州刺史に貶せらるるに座し、出されて華州司功参軍となる。秋、藍田に王維を訪い、冬末、洛陽の陸渾荘に帰る。

その後、この詩の時分、王維は長安の南の終南山の別荘にいた。王維は杜甫の言う「西莊」を経営する意欲は薄らぎ、「西莊」いわゆる?川荘は一部寺に寄贈されていた。



45.痩馬行
45 痩馬行 (痩馬行しゅうばこう)
道傍のやせうまを見て感をのべ鳶至徳二載房増が相を罷めたために作るとの説があるが非であろう。けだし乾元元年作者が左拾遺の官を免職されて華州の司功参軍に貶せられたのにより、
自己の境遇を馬に託してうたったものであろう。詩中の「天寒遠放」の語によれば元年冬の作か。

杜甫103痩馬行(東郊痩馬使我傷) (前半八句)
痩馬行
東郊痩馬使我傷,骨骼律兀如堵牆。
絆之欲動轉欹側,此豈有意仍騰驤?
細看六印帶官字,衆道三軍遺路旁。
皮幹剥落雜泥滓,毛暗蕭條連雪霜。』
去歳奔波逐餘寇,華留不慣不得將。
士卒多騎内厩馬,惆悵恐是病乘黄。
當時歴塊誤一蹶,委棄非汝能周防。
見人慘澹若哀訴,失主錯莫無晶光。
天寒遠放雁為伴,日暮不收烏啄瘡。
誰家且養願終惠,更試明年春草長。

 長安の城の東ののはらに痩せた馬がいるが之をみると自分はかなしくなる、その馬の骨組は
でこぼこ浮きだし、側面からみると土塀が立ってる様だ。これを縄でつなごうとすると動こうとしていよいよからだをよこにする、その様子では、この馬はやせてはいるがまだ以前のようにおとりあがろうとするきもちがあるのだろうか。仔細にみるとこの馬には官でおした焼き印が六箇所ばかりある、人々のいう所では官軍がみちばたにすてたのだそうだ。その皮はひからびてはげちょろけて、泥やきたないかすが経っており、毛のつやはうせてさびしくまっしろい色がつづいている。』
 去年官軍は狂奔して賊軍の余党を逐いまわしたが、その士卒どもは千里の駿足にはのりなれぬからのることができず、彼等は多くおとなしく訓練されている宮中のおうまやの馬にのった。自分のいたましくおもうのは、そのときこの痩せ馬もおうまやの駿馬であったのだが、病気でもしておったのではあるまいか。病気ででもあったのでそのころ土くれのうえをとおるときふとしたことでついけつまずいたのですてられた、そんなわけですてられたのなら、そのすてらるることたるやとても汝(痩馬)が防止し得る所ではないのだ。(運命なのだ。)今この馬は人を見てはものがなしそうにしてかなしみうったえるが如く、主人を失ってはさびしく眼の光もうせている。このさむぞらに遠くへはなれて雁を伴侶となし、日がくれてもとりいれられず、烏がきてきりきずの処をつついている。(以下は馬に代ってその心をのべる。)何人かの家で自分(馬)をかりに飼養してくれるものはないか、もしあるならばどうかそのめぐみを最後までつづけてもらいたいものだ。そしたら、自分は明年春のわかぐさののびたときに更に自分の力をためしてみょうとおもうのだ。

東郊の痩馬(しゅうば)  我をして傷(いた)ましむ
骨骼 ?兀(ろつこつ)として堵墻(としょう)の如し
之を絆(ほだ)さむとすれば 動かむと欲して転た欹側(いそく)す
此れ豈に仍(な)お騰驤(とうじょう)せむとするに意有るか
細かに看れば 六印(ろくいん)官字(かんじ)を帯(お)ぶ
衆は道(い)う  三軍路旁(ろぼう)に遺(のこ)すと
皮は乾きて剥落(はくらく)し泥滓(でいし)雑(まじ)わり
毛は暗くして蕭條(しょうじょう)として雪霜連なる』
去歳(きょさい)  奔波(ほんは)して余寇(よこう)を逐(お)う
??(かりゅう)には慣(な)れず将(ひき)いることを得ず
士卒は多く内厩(ないきゅう)の馬に騎(の)る
惆悵恐る是れ病める乗黄(じょうこう)なりしならむことを
当時  歴塊(れきかい)  誤って一蹶(いっけつ)す
委棄(いき)せらるること汝が能く周防するに非ず
人を見て惨澹 哀訴(あいそ)するが若(ごと)く
主を失いて錯莫(さくばく)晶光(しょうこう)無し
天寒く遠く放たれて雁(がん)を伴(とも)と為し
日暮れて収められず 烏(からす)は瘡(きず)を啄(ついば)む
誰が家にか且つ養わむ願わくは恵(けい)を終えむことを
更に試みむ  明年(めいねん)春草の長きに


城の東で痩せた馬に会い  私は悲しみに打たれる
骨はごつごつとして  壁のように浮き出ている
縄で繋ごうとすると  体を動かして避けようとする
この様子では  以前のように跳び上がる気持ちがあるようだ
詳しく見ると   官印が六か所ほど押してあり
聞けば官軍が  路傍に棄てた馬という
皮は干からびて禿げちょろになり  泥や垢にまみれ
毛はつやをなくして  白くさびれている

去年は狂ったように  敗残の賊を追いまわしたが
兵は駿足の馬を御しきれず
多くの将兵は  馴れた宮中の馬に乗った
この馬も官の駿馬であったが  病気にかかっていたのだろうか
病のために   ふとしたことで小石につまずき
棄てられたのは  汝の責任ではない
馬は物悲しく  訴えるように私をみるが
主人を失って  眼のひかりは失せている
寒空にひとりはぐれて  雁を仲間とし
日暮れても厩に入れず  烏が傷口をつついている
誰か自分を養って  最後まで面倒をみてくれる者はいないか
春になって若草が伸びたら  もういちど力を試してみたいのだ

○東郊 長安の城の東の野外。○骨解 はねぐみ。○棒先 骨だかいさま。○堵埼 ついじ、かき、骨体が壁のごとくに立つことをいう。○絆 なわでからげる。○欲動 馬がうごこうとする。○転 いよいよ。○歌側 そばだちVかたむく。直立せぬこと。○此 馬のその態度をさす。○偽 いままでのように。○騰嬢 おどってあがる、馬のいさむさま。○細看 くわしくみる。〇六印 六か所の焼き印、一に六を火に作る、火印ならば焼き印をいう。○帯官字 唐の官馬は其の種類用途如何により馬の尾側、左右牌(もも)、左右縛(かた)、項(うなじ)、頼(ほお)等に焼き印を押した。其の文字には年時・牧監の名があり、竜形・三花の印があり、又、「官」の字、「飛」の字、「風」の字、「賜」の字、「出」の字の印があった。この馬は六か所に官で押した印のあるものであろう。上旬をもし「火印」とするならば帯官字は「官」の字をおぶと解すべきである。○衆道泉人がいう。〇三軍 天子の軍。○遺 遺棄する。○皮乾 脂肪光沢のなくなったさま。○剥落 はげちょろ。○泥淳 どろ、にごりかす。○毛暗 晴とは光沢を失ったことをいう。○粛条 さびしいさま。○連雪霜 雪粛連と同じ、雪霜とは白っぽい色をたとえていう。馬の病むときは毛のさきがほこりを帯び、色つやがわるく、そのさまが雪肩のつらなっているのに似る。○去歳 至徳二載。○奔波 狂奔すること、官兵がはしりまわること。○逐余冠 余蓮とは安禄山賊軍ののこり、速とは官兵がこれをおうこと。○騨堀 千里の馬。○不慣騎るになれぬ。一説にのりならされておらぬものととく。○不得将 将は騎りひきいること。○士卒 官軍の兵卒。○内厩 天子のおうまや、そこには調練を経た名馬がたくわえてある。○個惧 うらむさま、作者が今日よりさかのぼってうらむ。○恐是 恐とはきづかうこと、これも作者がきづかう。○病乗黄 病める乗黄、乗黄とは神馬、内厩の駿馬で上旬の「騨騒」というのも同じ。この痩馬は乗黄ではあるが不幸にもその病めるものであったのであろう、というのである。○当時 逐冠のときをさす。○歴塊 漢の王表の「聖主ノ賢臣ヲ得ル頒」にみえる、一箇のつちくれをとおる、歴はへる。○蹴 つまずく。○委棄 うちすてる。○汝 痩馬をさす。○能周防 非汝能周防は非三汝之所二能周防一というのに同じ。周防はておちなくふせぐこと。ふせぐことのできるものでないとは、運命だというはかなしということ。○見入 他人をみる。○惨澹 ものがなしいさま。○失主 かいぬしをなくする。○錯莫 落莫というがごとし、さびしいさま。〇品光 すきとおりかがやくひかり。眼光をいうのであろう。○天寒 ふゆぞらをいう。○遠放 かいての無いゆえ遠方まではなたれてある。○不収 収とは人がうまやへいれてくれることをいう。○啄瘡 きりきずのある処をくちばしでつっく。○且養 しばらく飼養してくれる。○願終恵 顔延年「赤白馬賊」に「願ワクハ恵養ヲ終エテ本枝二蔭セン」とあるのに本づく、願は馬がねがう、終恵とは始め飼養するという恵をあたえるならばそれを最終まであたえでくれることをいう。○更試 試とは行走の脚力をためしみること。○明年 単につぎのとし


 前年十月に洛陽を敗退した安慶緒は、この年になると相州(河南省安陽市)の?城(ぎょうじょう)に拠って兵六万を集め、周囲の七郡を支配する勢力になっていました。そこで政府は九月になると、朔方軍節度使郭子儀(かくしぎ)ら九節度使の軍を派遣して?城を包囲しました。
 秋のはじめに杜甫は、杜観ひとりを洛陽にやりましたが、戦線が河北と河南の境にある相州に集中した冬になっても、杜観はもどってきません。連絡もないので心配になってきた冬のはじめのある日、杜甫は華州の城の東郊で痩せた馬に出会いました。よくみると、その馬には官印が六か所も押してあり、官軍に棄てられた馬です。馬はみじめな姿で痩せ衰えていますが、捕まえようとすると体を動かして避けようとします。 

 杜甫は馬が大好きです。官に棄てられた馬の運命について想像をめぐらします。この馬も去年は狂ったように賊軍を追いまわしたに違いない。しかし、病にかかったか、小石につまずいたかして使いものにならなくなり、棄てられたに違いない。「委棄せらるること 汝が能く周防するに非ず」と杜甫は馬に同情を寄せます。
 馬の運命は杜甫の運命そのものです。杜甫はこの馬をみると、左遷された自分の姿をみるような気がしたに違いありません。最後の六句の馬への感情移入は、杜甫の気持ちをあらわすものと思われます。



1014遣興三首
1我今日夜憂,諸弟各異方。不知死與生,何況道路長。
避寇一分散,饑寒永相望。豈無柴門歸?欲出畏虎狼。
仰看雲中雁,禽鳥亦有行。

2蓬生非無根,漂蕩隨高風。天寒落萬裡,不複歸本叢。
客子念故宅,三年門巷空。悵望但烽火,戎車滿關東。
生涯能幾何,常在羈旅中!

3昔在洛陽時,親友相追攀。送客東郊道,遨遊宿南山。
煙塵阻長河,樹羽成皋間。回首載酒地,豈無一日還?
丈夫貴壯健,慘戚非朱顏。

1015至日遣興,奉寄北省舊閣老、兩院故人二首
冬至の日にむねのおもいをやるため門下・中書両省の旧官や両省の院にいる知りあいの人々に寄せた詩。蓋し乾元元年十一月華州での作。

至日遣興,奉寄北省舊閣老、兩院故人二首

其一
去?茲晨捧禦牀,五更三點入?行。
欲知趨走傷心地,正想氤?滿眼香。
無路從容陪語笑,有時顛倒著衣裳。
何人卻憶窮愁日,日日愁隨一線長。

自分は去年の冬至のあさげには御所へまかりでて御林をあおぎたてまつり、五更三点の朝はやく諸官員の行列のなかへはいりこんだ。ことしは華州におるのである、自分はこんな田舎の悲しいところで上官の前で奔走しつつ、ちょうどいまは長安の宮殿で諸員の眼中香煙がもやもや立ちのぼっているのだなと想像している、このことを諸君から知ってもらいたくおもう。自分は上官からよばれるので時として(きょうもそうだが)大急ぎにあわてて衣と裳とをあべこべに著けてでかけたりするが、もはやゆったりとして諸君にしたがってともに笑語するというみちはない自分はいま窮愁の境遇に在って、その愁たるや冬至以後の太陽の時間が婦女の一線ぶんの仕事の長さだけながくなってゆくとおなじ様に長くなってゆくということをだれがおもうてくれるであろうか。


至日遣興,奉寄北省舊閣老、兩院故人其一
○至日 冬至の日。○遣興 憂興を排遣すること。○北省 唐のとき門下省・中書省をさして北省という。○閣老 両省の官、たがいに敬称するとき閣老という。○両院 両省の院をさす。院はつめしょをいう、拾遺・補閲の官のつめし上をさす。○故人 旧知の人々、即ち作者の同僚。


去?茲晨捧禦牀,五更三點入?行。
○去歳 至徳二載。○並農去年の冬至のあした。○捧 ささぐ、ここは心にて尊敬することをいう。○御鉢 天子の御椅子。〇五更 漏刻にて夜を五分し一更より五更までとする、五更はよあけのとき。〇三点 銅板の類を三つうつ、刻をしらせること。○鶴行 鶴はおおとり、行は行列、官員の列をたとえていう。

欲知趨走傷心地,正想氤?滿眼香。
○欲知 諸君が知ることをのぞむ。○趨走 作者が葦州の上官の前へでて奔走すること。○傷心地 華州に居るのは作者の好まぬ所である、因って心を傷ましめる地という。○正想 ち上うどそのとき想像する、作者が想像するのである。○気誌 香煙のもやもやたつさま。〇滴眼香 眼中いっぱいの香煙、これは長安の宮中にあってのさま。

無路從容陪語笑,有時顛倒著衣裳。
○無路 路とは方途、方法というがごとくである。○従容 ゆったり。○陪 あとにしたがう。○語笑 在京の閣老故人の語笑。○有時 此の二字は未だ正解を得ぬ、蓋しこれは冬至についていうものであるが冬至以外のときをもこめていうのによってかくいったものか。有時とは時としての義。○願倒著衣裳 「詩経」に「東方未ダ明ケズ、衣裳ヲ麒倒ス。」とみえる、あけがた公より召されるのによりいそいで衣裳をつけるため裳を衣に、衣を裳とたがえてきることをいう、此の句は作者が暁を侵して華州の役所へ出かけることをいう。○却憶 先方よりこちらをおもいだす。

何人卻憶窮愁日,日日愁隨一線長。
○窮愁日 日とは時に同じ、窮愁は困窮し且つ愁えること、戦国超の虞卿の故事、ここは作者のさま。○随一線長  一線には二義があり、一には魂晋間の習俗で宮中において紅い線を以て日影を量るのに冬至以後は日影が一線の長さだけながくなるという、一線の長さ(尺寸)については記載を見ぬ。二は唐の宮中では女工を以て日の長短をはかるのに、冬至からはいつもにくらべて一線分だけ多くしごとができるという。同じ一線であるが前者は空間的、後者は時間的のはかりかたである。都から遠ざかる、影が長くなると、どちらにしても前向きでない朝廷を批判している。

去歳義の鼻御林を捧ず
五更三点?行に入る
知らんことを欲す傷心の地に趨走し
正に武義たる満眼の香を想うことを
従容として語笑に陪するに路無し
時有ってか顛倒して衣裳を著く
何人か却って憶わん窮愁の日
日日愁は一線に随って長きことを


其二
憶昨逍遙供奉班,去年今日侍龍顏。
麒麟不動爐煙上,孔雀徐開扇影還。
玉几由來天北極,朱衣只在殿中間。
孤城此日堪腸斷,愁對寒雲雪滿山。


おもいだしてみる、前年自分はゆったりと供奉の列にあって、去年のきょうは竜顔にはんべっていた。そのときは宮中で麟鱗の香炉がじっとすわってそれから香の煙がたちのぼり、しずしずと孔雀の団扇が左右にひらかれてそれぞれの位置へとつき天顔があらわれた。ところがことしはそことへだたって、御座の脇息はもとより天の北極の位にあってかわらぬが、百官に著席をうながす朱衣の属官のすがたはただ長安のごてんのまんなかに在るのでここではみられぬ。かかるしだいでこの華州の孤城ではきょうは自分の腸が十分ちぎれそうであり、愁えながらに冬ぞらの雲にうちむかえば遠山には雪がいっぱいかぶさってみえる。

其二
憶昨逍遙供奉班,去年今日侍龍顏。
○咋 前時をさす、ぼんやりいう。○逍遙 ゆったりぶらつく。○供奉班 近侍の列位。拾遺の官は供奉・諷諌をつかさどる。○去年今日 至徳二載の冬至の日。○竜顔 天子のおかお。

麒麟不動爐煙上,孔雀徐開扇影還。
○麟麟 きりん形、たけ九尺、金めっきの香炉。○不動 すわりのよいさま。○炉煙 香炉のけむり。○孔雀 孔雀の羽をもってつくった団扇をいう、唐の大朝会のおりにはこのうちわ百五十六本を左右に分かち、天子が初めて御座に升りたもうと左右より扇を合わせ、升りおわりたまうとまた扇を左右に開いた。○徐開 左右から合わせた扇をしずかにはなす。○還 左右にうごくさまをいう。

玉几由來天北極,朱衣只在殿中間。
○玉几 天子のおよりになる玉の脇息。○天北極 天子の位は天上星宿界においては北極星の座に此する、因ってかくいう。○朱衣 御史大夫の従官のきるきもの、このものは朝会のおり、かけごえして百官を班位に威かしめる。作者の服とみる説があるが今は取らぬ。○只在 只今徒在の意、此の二字は上旬の「由来」とともに想像を加えてのべた語である。○殿中間 ごてんのなかほど。

孤城此日堪腸斷,愁對寒雲雪滿山。
○孤城 孤立した城、華州のしろをさす。○寒雲 冬ぞらの雲。○山 長安の方位にあたってみえる諸山。


(至日興を遣り 北省の旧閣老・両院の故人に寄せ奉る 二首)
憶う咋造造たり供奉の班、去年今日竜顔に侍す
麟麟動かず炉煙上り、孔雀徐に開きて扇影還る
玉凡は由来天の北極、朱衣は只在り殿の中間
孤城此の日腸断ゆるに堪えたり、愁えて寒雲に対すれば雪山に満つ