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■3 望 嶽(幼少・青年期を振り返る)
■開元27年739年28歳、あるいは翌年29歳の作。 えん州に滞在します。
■五言古詩


■736〜737年ころまで洛陽に居て、江南から、次に斉趙への旅に出ました。
 旅の友は「蘇侯」と書かれ、杜甫の自注によると蘇預(そよ後に源明)のことで、監門の冑曹参軍事(ちゅうそうさんぐんじ:兵器庫係)でした。

ふたりは「青丘」で狩りをします.「青丘」は青州(山東省益都県)の丘です。蘇預が馬を寄せてきて杜甫の弓の腕前を褒めるのを、杜甫は晋の将軍山簡(さんかん)が部下の葛彊(かつきょう)を褒めるのに例えて、親しみをあらわしています。蘇源明はこのあとも、杜甫の生涯の友のひとりとして交流する人物です。また、杜甫は馬が好きで、馬について数多くの詩を残しています。

 四年間にわたる斉魯の旅の最後は、?州の父の官舎に滞在するかたちで過ごした。?州から北80kmに泰山があり、足を延して「望嶽」を詠んだ。詩は杜甫の残された作品の中では名作とされている。



○ 泰山と道教
碧霞宮
泰山封禅は皇帝のものですが、古くから庶民の間でも泰山にまつわる信仰の歴史はあるのです。春秋戦国に書かれた『莊子』の内篇の第一逍遙遊には既に大きいものの例えとして、「太山」という名前が記されています。荘子では人間の小ささを表すために、絶大な大きさを持つ架空の鵬という名の鳥を例に対比させています。これは泰山がとてつもなく大きいものの代表という概念が、春秋時代にはもう形成されていたことを示しています。

 山と道教と言った関係からも、道教と泰山は相性が良かったのです。東晋の『搜神記』にも、泰山が神性を帯びて冥界の神として登場します。泰山府君がおかれてから泰山信仰は『太平廣記』や『夷堅志』などの異聞に多く見られます。詩の出だしに「岱宗」とあるように信仰の象徴として古くから存在したのです。

 宋代に入ると、山頂の碧霞元君廟の周辺から碧霞元君像が発見されたことを契機に、泰山での信仰形態が変化します。
 女性に関すること全般に御利益があるとされる碧霞元君へ参拝することが中国の女性の間で人気となり、明代に入ると主神である泰山府君の人気を越えるものになっていきます。
 碧霞元君を祀った碧霞元君廟が中国各地で作られるようになり、本廟以外、泰安市内にも碧霞元君を主神として祀る廟は4つも存在するほどです。


■1987年に複合遺産として世界遺産に登録されている。

○ 泰山と仏教について
 道教の本山の泰山周辺には仏寺も多く存在します。霊巌寺、普照寺、竹林寺と由緒が正しいものが多いのも特徴的です。中でも霊巌寺は、創建が前秦ともいわれ、宋代には天下の四絶(中国を代表する4つの寺院)の一つに数えられている。日本からも曹洞宗の僧侶が多く留学にここを訪れた。霊巌寺には及ばないものの、普照寺も宋代に高麗人の満空禅師が建立しています。

 歴史的には、泰山と仏教との関係は、五胡十六国時代に竺僧朗が隠遁したことに始まります。
 『水経注』『魏書釈老志』『冥祥記』『高僧伝』などの同時代史料によれば、仏図澄門下の僧朗は、前秦の皇始元年(351年)に泰山の?瑞谷(金輿谷)に隠棲し、それによってこの谷は朗公谷と呼ばれるようになったとされます。前秦の苻堅、後秦の姚興、後燕の慕容垂、南燕の慕容徳らの五胡の覇主らの尊崇を受け、北魏の道武帝も僧朗に対して師礼をとりました。

 北魏代、その朗公谷に建てられた朗公寺は、帝室の保護を継続して受け、それが東魏・北斉にまで継承されます。また、その周辺に建てられたのが、霊巌寺や神宝寺などの諸寺です。霊巌寺の開基については、仏図澄が清水を湧き出させた地であるとか、竺僧朗ゆかりの地に建てられたという伝承が見られます。

○泰山と儒教について
 この詩の最終句にある「一覽衆山小」は孔子が泰山を訪れていった故事を踏まえている。泰山には孔子にまつわる名所や孔子廟が作られています。宋代には孫復を初めとする泰山学派と呼ばれる儒学者達が西南の麓、五賢祠に移り住み大いに栄えたといいます。
 泰山の岩壁に書かれた碑文は数えきれないほど多くあります。
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 青春時代、杜甫は寺巡りや狩りをしたり、泰山に登るなど、山東省付近で遊びました。自分の持っている才能で立身出世ができるものと夢見ていました。泰山からの眺めを詠う青雲の心に満ちたものです。
 はじめの二句で、「岱宗 夫れ如何」と問いかけます。それは泰山の雄大さを哲理の言語で讃え、自然の情景を自己との感応で語りかけ、後半は眦が張り裂けんばかりにこの雄大な山々を飛ぶ鳥に目を移し、そして言います。「泰山に上って天下を見下ろそう」と。。

泰山(たいざん)は中華人民共和国山東省泰安市にある山。高さは1,545m(最高峰は玉皇頂と呼ばれる)。

封禅の儀式が行われる山として名高い。 道教の聖地である五つの山(=五岳)のひとつ。五岳独尊とも言われ、五岳でもっとも尊いとされる。 ユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録されている。
概要
主として東岳大帝(同・泰山府君)と碧霞元君(同・泰山娘娘)・眼光??を祀っている。泰山府君は病気や寿命、死後の世界の事など、生死に関わること全般に、また碧霞元君は出産など、女性に関する願い事全般に、そして眼光??は目に利益があると、それぞれ信じられている。その人気は普陀山の観音信仰と比せられる程で、中国大陸での人気を二分している。


泰山玉皇頂そもそも、泰山では東岳大帝が最も重要な神位として祀られてきた。後漢代には「俗に岱宗(=泰山)上に金篋・玉策があり、人の年寿の脩短をよく知る」(『風俗通』巻2)と記されている。つまり、泰山の山頂には人間の寿命の定数を記録した原簿に相当する帳簿が置かれているという信仰が存在していた。下って魏晋南北朝より唐代頃になると、その帳簿を管理する、人間界同様の組織の存在が想定されるようになる。こうして、長官としての泰山府君が出現し、その配下の官僚としての泰山主簿、泰山録事、泰山伍伯等の存在が生み出されてくるのである。

また、後漢代には伝来していたとされる仏教の漢訳経典中に見られる「太山地獄」が、中国では現実に実在する泰山の地下深くに存在するものと考えられるようになった。こうして泰山地獄も誕生する。

宋代頃に入ると跡継ぎ問題により娘の碧霞元君の人気が上がりはじめ、現在のように碧霞元君に参詣するという形式になったという。明代の小説『醒生姻縁伝』にはその信仰が詳細に描かれている。

山頂へと続く参道には斗母宮や関帝廟といった多くの道観(道教寺院)群や渓谷の一面に『華厳経』が彫られた経石峪がある。また頂上付近には碧霞宮と呼ばれる碧霞元君を祭った道觀や、玉公閣という東岳大帝を祀った道觀、漢の武帝が建てたと伝えられる、「無字碑」という碑面が無地の碑文、摩崖碑と呼ばれる玄宗皇帝が彫らせた封禅の碑文があり、見所となっている。

泰山の道観には東岳大帝と碧霞元君と共に観音菩薩や弥勒菩薩を祀っている所も多く興味深い。

山麓には泰山府君を祀った岱廟がある。岱廟の壮大な有様は中国三大建築(他に、孔廟、紫禁城)の一つに数えられる。岱廟は現在は泰安博物館となっており、封禅の時に記念して彫られた多くの碑文が此処にある。有名なところでは、秦の始皇帝が行幸の折に泰山に残した李斯の碑文が見られる。泰山とその周辺には普照寺や竹林寺、霊巌寺といった由緒ある仏教寺院も多く、特に霊巌寺には日本からの曹洞宗の留学生が宋代に多く訪れている。

泰山山頂までは現在、一般道が中腹まであり、またそこからはロープーウェイが走っており、容易く登れるようになっている。但し、泰山の標高は1500mに過ぎないが、山麓の地表の高度は0mに近いため麓から歩いて登るときには3時間は掛かるだろう。



嶽を望む       
岱宗たいそう 夫それ如何いかん
齊魯せい ろ  せいいまだ了をはらず。
造化は ~秀を鐘あつ
陰陽は 昏曉を割わかつ。
胸を盪とどろかせば 層雲 生じ,
まなじりを決すれば 歸鳥 入る。
かならず當まさに 絶頂を凌しのぎて,
一覽すべし 衆山の小なるを。





えん州
えん州市は山東省西南部の魯西南平原に位置する。東には曲阜の孔子ゆかりの「三孔」を仰ぎ,西には梁山県の水滸伝ゆかりの沼沢地(梁山泊)があり、北には泰山がそびえ、南には微山湖を望むため、「東文、西武、北岱、南湖」と呼ばれる。

全市の総面積は651平方キロメートルで農地面積は60万畝ほど。泗河が南西から北東に流れ、その西北岸に?州の中心市街地がある。昔の県城内には府河という小さな川が流れ、九仙橋や中御橋などが架かる。

  3 望 嶽

 古より聖地として名高い泰山。秦の始皇帝、唐の玄宗皇帝、数多くの権力者たち、すべての人たちがこの山に畏敬を念を込めて岱宗と呼ばれていました。


泰山頂上を望む


 望 嶽  


岱宗夫如何,齊魯青未了。


造化鍾神秀,陰陽割昏曉。


盪胸生曾雲,決眥入歸鳥。


會當凌絶頂,一覽衆山小。



 泰のみやまは一体いかなる山であるかといえば、斉のくに魯のくにまでその山の青さが終わろうとはしない。万物のつくり主が神妙な霊気をあつめ、陰気と陽気がこの山に働いて昼と夜とを分割する。重なった雲が湧きたってわがこころをとどろかせ、山に帰りゆく鳥をまぶたも裂けよと目をこらす。いつかはきっと絶頂によじのぼり、足もとに山々の小さくみえるのを眺めるであろう。

 ○岱宗 泰山をいう。岱は泰に同じ。宗は五岳の長の意。○斉魯 斉は泰山の北の地方。魯は泰山の南の地方。○骨雲 層雲に同じ。○衆山小 『孟子』尽心上に、孔子が泰山に登って天下を小としたとあるのを踏まえる。
○韻字 了・暁・鳥・小。

   泰山はさてどんな山なのだろうか、斉魯にまたがり
   緑はどこまでもつづく
   天地万物の理は すぐれた妙をあつめ、太陽と月が
   朝と夕べを分ける
   胸を時めかせて 曾雲が湧き、眥を決するなか鳥が
   ねぐらに帰ってゆく
   いつの日かきっと山頂をきわめ、群小の山を見おろ
   すであろう

望嶽:高大な山・泰山を望む。また、四方の群小の山々を見下ろす泰山のようになりたいと願う。双方の意が込められている。後期の詩には見られない詩風。 ・嶽:高大な山。ここでは、五岳の長である泰山を指す。 ・望:ながめる。そうありたいと願う。第一義的には「(泰山を)ながめる」の意だが、「(四方の群小の山々を見下ろす泰山の)ようになりたいと願う」の意もあることが、作品全体を通して伝わってくる。
岱宗夫如何:泰山(岱宗)とは、そもそも、どのような山なのか。 ・岱宗:〔たいそう〕泰山。「宗」は五岳の長の意。現・山東省泰安市のすぐ北、済南の50キロメートル南にある大山。旧時、皇帝が封禅の儀式を行ったところでもある神聖な山。東岳。五岳の一つ。 ・夫:〔ふ〕それ。いったい。そもそも。発語の言葉(助字)。 ・如何:どのようであるか。どのようにするか。ここは、前者の意。
齊魯青未了:斉の国(現・山東省東部)から魯の国(現・山東省西部)の国にまたがり、山の青さは尽きることがない。 ・齊魯:〔せいろ〕現・山東省東北部から西部。 ・青:ここでは、青々とした山の緑のこと。 ・未了:いまだ尽きることがない。まだ終わらない。
造化鍾神秀:天地創造の造物主は、比類の無い霊妙を集め。 ・造化:〔ぞうか〕万物を造り出して、育てるもの。造物主。宇宙。自然。天地間の万物を支配している法則。 ・鍾:〔しょう〕(抽象的なものを)あつめる。 ・神秀:〔しんしゅう〕不思議に気高くひいでる。何ともいえず神々しい。
陰陽割昏曉:泰山の南(陽)と泰山の北(陰)とでは夕方と明け方を異にするほどである。 ・陰陽:ここでは、山の北側と南側のことになる。 ・割:〔かつ〕切り分ける。 ・昏曉:〔こんぎょう〕夕方と明け方。
盪胸生曾雲:我が胸を動かすのは、かさなりあった雲が湧き上がってくるさまで。 ・盪胸:〔とうきょう〕胸を突き動かす。 ・盪:〔とう〕突く。動かす。 ・曾雲:〔そううん〕幾重にも重なった雲。層をなす雲。
決眥入歸鳥:目を大きく見開けば、ねぐらに帰る鳥が山影に吸い込まれていく。 ・決眥:〔けつぜい〕目を大きく見ひらく。 ・眥:〔ぜい、し、ざい〕まなじり。 ・歸鳥:(日暮れになって)ねぐらに帰る鳥。
會當凌絶頂:(いつの日か、)必ずやこの泰山の頂上をきわめて。(いずれの日にか、みんなの上に立って)。 ・會當:かならず。きっと。まさに…すべし。 ・凌:〔りょう〕侵(おか)す。犯(おか)す。しのぐ。 ・絶頂:山の頂上。山のもっとも高いところ。
一覽衆山小:周囲の群小の山々を、一望に見下ろしてやるのだ。(みんなをみおろしてやろのだ)。 ・衆山:もろもろの山。 ・小:ここでは、「(一覽)・衆山小」で「多くの山々が小さいことを…」の意 孔子の故事を引用。


望 嶽  


岱宗夫如何,齊魯青未了。


造化鍾神秀,陰陽割昏曉。


盪胸生曾雲,決眥入歸鳥。


會當凌絶頂,一覽衆山小。