唐時代の詩人

安史の乱と杜甫


安禄山の乱と杜甫

概要
1. 755年11月初から763年にかけて、范陽・北方の辺境地域(現北京周辺)の三つの節度使を兼任する安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱である。

2. 反乱した安禄山の軍に対する唐の国軍の大部分はほとんどが経験の少ない傭兵で、全く刃が立たず、安禄山率いる反乱軍は挙兵からわずか1ヶ月で、唐の東都(中国の中心と考えられていた)洛陽を陥落させた。

3. 安禄山は皇帝(聖武)を名乗り、さらに長安へと侵攻を開始し6月長安の手前最後の砦である潼関が破られる。玄宗は蜀(現在の四川省)へと逃れる。その途上の馬嵬で、楊国忠、息子の楊暄・楊出・楊曉・楊晞兄弟、楊貴妃も絞殺された。

4. 玄宗は退位し、皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位した。
安反乱軍は常に内紛を起こし、安禄山は息子慶緒に殺され、さらに史思明に殺害され権力は変わっていく。この反乱勢力の分裂は各地の叛乱を呼び起こす。しかし、一つの力にまとまらないものはやがて他国に援軍を求めた唐の国軍に制圧されることになる

5.王朝内部では、宦官勢力が強くなり、国全体では、潘鎮が地方の王気取りになっていき、王朝は実質支配を限定されたものとなっていく。しかしこれから150年唐王朝は続くのである。




安禄山の乱

叛乱軍の侵攻


●杜甫が奉先県の家族のもとで幼子の死を嘆いているころ、幽州の指陽(今の北京)では安禄山が兵を挙げていた。杜甫44歳の時である。

●その時李白は敬慕する謝跳曾遊の地、宜城に一生を送りたいと思いつつあったとき、突如、安禄山の報が入って、驚愕させた。時に李白55歳の時である。



■ 安禄山の叛乱  755年 11月〜

755 天宝十四年11月 9日、「逆賊・楊国忠を討て」と勅命を受けたと偽り、息子の安慶緒、高尚、厳荘、孫孝哲、阿史那承慶らと范陽で反乱を起こす。15万人の大軍を率いて夜半に洛陽への進軍する。太原、河北の諸郡は全て降伏させた。


12月13日には東都洛陽を陥してしまった。そうして翌年の6月18日には長安に入城する。その間の様子を少し詳しく述べると、


755 11月16日−朝廷では安西節度使封常清を召して対策を下問。封常清を先鋒部隊の大将として洛陽に進発させた。


755 12月 2日−高仙芝が総司令官として東に向かった。


755 12月 6日−陳留(河南省開封の陳留)陥落。


755 12月10日−鄭州(河南省許昌の鄭県)陥落。


755 12月13日−洛陽陥落。敗れた封常清は、高仙芝とともに洛陽と長安の間にある潼関で安禄山軍をくい止めようとしたが、監軍(目付)として従っていた嘗者の辺令誠の蔑言により、両名は玄宗より死を賜わった。そのあとは河西・院右の節度使哥舒翰に引き継がれた。



756 天宝15年元旦−安禄山は洛陽で帝位に即き、大燕聖武皇帝と称した。
 史思明と蔡希徳が常山を陥落させ、河北の奪還に成功した。しかし、唐側の郭子儀と李光弼によって、史思明が敗北し、さらに顔真卿が激しい抵抗を重ね、再び河北の情勢は危うくなる。再度、史思明が郭子儀と李光弼に敗北したことにより、河北の十数郡が唐に奪回される。南方も唐側の張巡らの活躍によって、配下の尹士奇や令狐潮の進軍を止められてしまう。


河北において、常山太守の顔杲卿と平原太守顔真卿が唐のために決起したため、叛乱軍は潼関攻撃を止め、河北へと引き返すところへ追いつめられた。
潼関に陣を布いた哥舒翰は、叛乱軍と対峙して動かなかったが、その間に平原太守の顔真卿ら河北の軍が賊の後方を撹乱したため、安禄山は花陽への一時撤退を考えはじめていた。ところが朝廷では、楊国忠らが哥舒翰の待期作戦に業をにやし、潼関を出て戦うよう督促。

●叛乱軍の侵攻
756 6月 4日 潼関を出た哥舒翰は、函谷関の西、霊宝県で安禄山軍と戦って大敗。潼関へ逃げ帰ったのち、部下に強要されて賊に降った。
孫孝哲、張通儒、安守忠、田乾真に長安、関中を治めさせた。陳希烈、張均、張?らは叛乱軍に降伏し、王維は捕らえられ、洛陽に連行された。長安、洛陽は、大虐殺を行ったので長安洛陽での反抗反撃がなくなり略奪の限りを尽くし、悲惨な状況になる。潼関の勝利に甘んじて唐国軍をそれ以上追わなかった。


756 6月 10日 宮中で御前会議が開かれ、楊国忠は蜀(四川省) への行幸を請い、玄宗はそれを了承。


756 6月13日早朝−玄宗は貴妃姉妹、皇子、皇孫、楊国忠および側近の者だけを連れ、陳玄礼の率いる近衛兵に衛られて西に向かった。


756 6月14日 馬嵬の駅で護衛の兵たちは、このような事態を招いた責任を問い、楊国忠および韓国夫人・秦国夫人を殺害。さらに楊貴妃に死を賜うことを要求。玄宗はやむをえずそれに従った。玄宗は皇太子(李亨)に討賊の任を与えてあとに残し、皇太子は西北の辺境にある霊武(寧夏回族自治区霊武)に逃れ、群臣に推されて帝位に即く(粛宗)。




杜甫乱前後の図003鳳翔

756 6月18日−賊軍は長安へ入城。


756 6月19日−玄宗の一行は散開(隣酉省宝鶏市西南)に至る。


756 7月  唐側は態勢を立て直すのに成功した。関中の豪族たちが唐側についた。また、河北では顔真卿が抵抗を続け、南では張巡の守る雍丘を陥落できない状況が続いていた。


756 7月 唐の皇太子李亨が粛宗として、霊武で即位、郭子儀が軍を率いて加わった。唐軍が勢力回復するかと思われたが、房?(杜甫のおさな馴染み)が敗れ、郭子儀と李光弼が山西に退き、史思明が河北で勝利し、顔真卿も平原を放棄し河南に逃げる。


756 7月28日 ようやく成都へ到着。


757 至徳2年(757年)正月、安慶緒は安禄山を殺害しこの乱は安慶緒によって続けられる。さらに、安慶緒は史思明に殺され、引き継がれたために安史の乱と呼ばれるようになり、史思明の子・史朝義が殺される763年まで続いていくことになった。この後も、安禄山の旧領はその配下であった3人が節度使として任命され、「河北三鎮」として唐に反抗的な態度を続けることになる。


黄河二首 杜甫
オレンジが安史軍支配地域756年7月から12月期。

安史の乱は官軍と賊軍という範疇では説明できない。反乱軍という表現だけでもいけない。異民族はどちらにも構成軍に入っているし、安禄山の軍も、いろんな構成であった。
この詩、黄河二首の時期の勢力図であり、地図の中央上部の地点で安史軍と王朝ウイグル連合軍が対峙した。この時唐王朝は、霊武から河曲(緑の矢印辺)あたりしか支配地域が限定して、じり貧状態であった。

○ 756年6月,玄 宗 の命令 により、哥舒翰軍は潼関より東に出撃.哥舒翰は敗北して敵の手中に。.

○ 長安では楊国忠の主張により、蜀(四川)への蒙塵を決定.。

○ 756年6月13日 未明、玄宗、皇太子夫妻、楊貴妃 とその一族、楊国忠一家、公主たちが、極秘裏に宮殿を脱出。


○ その後,玄宗は蜀へ蒙塵し、玄宗は皇太子に長安を奪回せよと命ず。皇太子は捲土重来を期して霊武へ向かう。霊武は西北辺境の要衝であり、かつ朔方節度使・郭子儀の本拠地。

○ 756年07月,皇太子は群臣の懇望を受けて、蜀にある玄宗を上皇にまつりあげ、粛宗として霊武で即位.至徳と改元。援軍を得るためには皇太子が皇帝にならなければ要請できない。


○ 756年09月,粛宗はウイグルに援軍を求めるために使者を。漠北のモンゴリアに派遣使者となったのは,王族の一人(敦 煙郡王承粟)とトルコ系武将の僕固懐恩とソグド系 武将の石定番。


★756年8〜9月 杜甫蘆子関付近で捕縛される。


○ 756年10月にオルホン河畔のオルドバリクで会見.ウイグルの第2代 可汗・磨延畷(葛 勒可汗)は喜んで、可敦(カトン;可汗の正妻)の妹を妾(めあわ)自分の娘とした上で、これを承粟に嬰す。さらにウイグルの首領を答礼の使者として派遣してきたので、粛宗はこれを彭原に出迎え、ウ イグル王女を砒伽公主 に封じた。


○ 756年7〜12月[通鑑 による],安史勢力側の阿史那従礼が突廠・同羅・僕骨軍5000騎を率い,河曲にあった九府・六胡州の勢力数万も合わせて、行在=霊武を襲わんとした。


○ 756年9〜12月郭子儀は,磨延啜自身が率いて南下してきたウィグル本軍を陰山と黄河の間にある呼延谷で迎え,これと合流。

・一方これ以前 に葛遷支率いる ウイグル別働 隊2000騎 がまず范陽を攻撃したが,成功せずにそこから太原方面に移動。


・郭子儀軍はこれ らのウイグル本軍並びに別働隊と協力して,阿史那従礼軍を斥け,河曲(黄河の大湾曲部内側の北半部,す なわちオルドスを中心に,そ の外側の陰山山脈以南を合わせた一帯;現在の内蒙古自治区の一部とちんにし陝西省〜寧夏回族自治区の北辺)を平定した。