時代の変遷・概略 漢詩理解のための時代の解説一覧
 中国の時代と詩人のたち
上代から漢の詩人
孔子 孟子 屈原 宋玉 荊軻 項羽
から三国、隋の詩人
武帝 蘇武 王昭君 卓文君 蔡邑
曹操 曹丕 曹植 阮籍 陶淵明 

 唐代の詩人
  ・初唐の詩人たち
魏徴 王勃 蘆照鄰 駱賓王 沈栓期 宗之問 上官儀 上官宛兒 劉希夷
  ・盛唐の詩人たち
張説 張九齢 賀知章 孟浩然 王維 裴迪 王昌齢  王翰 賈至 高適 李白 杜甫 岑參 王之渙 
  ・中唐の詩人たち
韋応物 劉張卿 孟郊 柳宗元 劉禹錫 白楽天 張継 顔真卿 元槇 薛濤
  ・晩唐の詩人たち
杜牧 李商隠 温庭均 高胼 曹松  魚玄機
 
 宋代から近代詩人
蘇東坡 欧陽脩 司馬光 晏殊 王安石 曹鞏 岳飛 陸游 朱熹 辛棄疾 高啓 秋瑾 

  女性詩人たち 
雰囲気の柔らかい詩を書く詩人たち

 ・王昭君  卓文君 劉細君
 白楽天 王昭君を詠う二首
 ・班u、  蔡炎  謝眺
 ・上官宛兒   楊貴妃
 ・薛濤(せつとう)  唐宛
 ・魚玄機の詩   秋瑾

中国4000年の奇跡

杜甫・王維・李白の生きた時代:関連年賦

○安史の乱と3詩人編集中

杜詩研究

●杜詩研究編集中

○ 杜甫詩 1411首
  ・ 年賦・詩の時系序列
○ 杜甫 詩目次と詩のタイトル
○ 杜甫アウトライン
○ 杜甫ものがたり編集中
○ 杜甫 李白を詠う

◎ 青年期と李白と遭遇期
◎ 李白と別離仕官叶う期
◎ 漂泊の旅情期

○ 杜甫私記編集中
○ 杜詩研究編集中

 杜甫の人生(一般論)
  吉川幸次郎『杜甫ノート」の要約
 杜甫間違った士官の
 杜詩『白髪の詩」の変遷
 杜詩「政治的発言」変化
 杜詩「愛すべき詩」
  中国詩史上初、妻を愛す詩
 杜詩「自然への愛」
 杜詩「抑圧された人への愛」
  中国詩史上初、社会で抑圧された人を詠う
 杜詩「調子に乗ってしまった?」
 杜甫の人生
  杜詩の画期的時期につぃて

◎ 杜甫 李白を詠う
  ・贈李白[五言律排]
  ・贈李白[七言絶句]
  ・遣懐
  ・春日憶李白
  ・飲中八仙歌
  ・昔游
  ・冬日有懐李白



王維の詩

● 王維詩研究

  ・ 王維詩 
    年賦・詩の時系序列
○ 王維 詩目次と詩のタイトル
○ 王維詩アウトライン
○ 王維ものがたり(一般論)
○ 王維ものがたり(画期的時期)研究
   王維 罔川集 20首


李白の詩
■ 李白の詩
 ・送別の詩  ・春爛漫詩
 ・楼上の詩  ・交友の詩
 ・情愛の詩  ・酒友の詩
 ・夏日の詩  ・戦乱の詩
 ・懐古の詩  ・気概の詩
 ・旅情の詩  ・望郷の詩
 ・閑適の詩  ・老境の詩
 ・冬日の詩  ・人生の詩
◎ 李白杜甫を詠う



五代十国 907〜960
 
林逋(りんぽ    967年 - 1028年
蘇舜欽(そ しゅんきん)1008 - 1048
柳永         987年〜1053年
晏殊         991〜1055
欧陽脩おうようしゅうB1007〜1072
曾鞏   F       1019〜1083
司馬光          1019〜1086  
王安石  G      1021〜1086
蘇洵(そじゅん) C  1009〜1066
富弼(ふひつ)     未詳〜1083
蘇軾(蘇東坡)   D  1036〜1101
蘇轍   E       1039〜1112 
宋江           生没年不詳
孫覿(そんてき)    1081〜1169年
張元幹                1091年〜不明
 南宋1127年 - 1279年
岳飛(がくひ)      1103〜1141
呂祖謙(りょそけん)  1137〜1181
張蝕(ちょうしょく)   1133 - 1180
陸象山          1139〜1192
朱熹(朱子)      1130〜1200
陸游           1125〜1209
唐椀
辛棄疾(しんきしつ) 1140 〜1207
戴復古(たいふくこ) 1167〜不詳
周密(しゅうみつ)
陳亮 (ちんりょう)  1143〜1194
杜秉(とへい)
張元幹ちょうげんかん1091〜不明
張孝祥(ちょうこうしょう)1132〜1169
眞山民(しんさんみん) 1274頃
楊萬里         1127〜1206
劉克莊        1187年〜1269年)
文天祥(ぶんてんしょう1236〜1282
謝枋得          1226〜1289



金  1115〜1234
海陵王・完顏亮480〜494
元好問1190〜1257


元  1271〜
馬致遠  生没年未詳。


明  1368〜
太祖・朱元璋1328- 1398
高啓 (こうけい)1336 - 1374年
于謙  (うけん)1398 - 1457
方孝孺 (1357年 - 1402年)
文嘉 (ぶんか)(1501 - 1583)
王陽明1472 - 1529明の儒学者、
海瑞 (かいずい)1514 - 1587
劉基 (りゅうき)1311年 - 1375年


清・近現代 1644〜
呉偉業(ごいぎょう)(1609年 - 1671年)明末〜清初の詩人。

顧炎武(こえんぶ)(1613年 - 1682年)明末〜清初の儒学者。

和?(かしん)(1613年 - 1682年)明末〜清初の儒学者。

洪秀全(こうしゅうぜん)(1814年 -1864年)
譚嗣同(たんしどう)1865 -1898
張之洞(ちょうしどう)1837 - 1909
黄遵憲(こうじゅんけん)(1848年 -1905年)
文(そんぶん)(1866年 - 1925年)
梁啓超(りょうけいちょう)(1873年 -1929年)

秋瑾(しゅうきん)(1875年 - 1907年)

魯迅(ろじん)(1881年 - 1936年)

老舎(ろうしゃ)(1899年 - 1966年)

毛沢東(もうたくとう)(1893年 -1976年)

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宋時代以降の詩人

宋時代以降の詩人


五代十国 907年〜960年

唐の滅亡から宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した五つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。
 
581 貫休 832―912
政治家・詞人。字は幼安、号は稼軒(かけん)、歴城(現在の山東省済南市)の人。
 歴城(山東)出身。字は幼安、号は稼軒。華北に住し、采石磯の役での金軍の動揺に乗じて挙兵すると初めは耿京に従い、耿京が張安国に殺されると安国を捕えて宋に帰順し、承務郎とされた。孝宗期には各州知事を、後に湖北・江西・湖南の安撫使を歴任し、任地の治安民政を安定させた。主戦論者だったために和平派の弾劾で罷免され、まもなく浙東安撫使・鎮江知府に任命されたが、勅使到着前に歿した。朱熹とも親交があり、朱熹の歿した際には偽学の禁を冒して追悼・埋葬した。政治家としては大成しなかった辛棄疾であるが、文人としては名声を博し、金に対抗し宋による故地回復を願った文章を数多く残している。また様々な題材での詞・漢詩も残しており『稼軒集』などが現在に伝わっている。北宋の蘇軾と並び「蘇辛」と称されることもある。検索エンジン「百度」の社名は、彼の作品『青玉案』に由来。
春晩書山家屋壁
582 羅隱  833〜909
五代の詩人。字は昭諫。本名は横。江東生と自号する。呉越、新城の人。晩年、呉越王銭鏐に仕えて、銭塘県令などを任じた。後梁の朱全忠に諫議大夫として召されるが行かず。『舊唐書・列傳・羅弘信・子威』「錢塘人羅隱者,有當世詩名,自號江東生。」或いは「江東人羅隱者,佐錢鏐軍幕」(『舊五代史・梁書』)ともする。 自遣(得即高歌
失即休)   江
南行(江煙涅雨
蛟?軟)   蜂
(不論平地與山
尖)   
583 馮延巳(ふうえんし) 903―960
中国、五代の南唐の詞人。一名延嗣。字(あざな)は正中。広陵(江蘇(こうそ)省揚州)の人。初め南唐の中主李(りえい)に書記として仕え、のちに宰相に至った。政治家としてはあまり高く評価されず、もっぱら詞人として知られる。その詞は多く士大夫(したいふ)の閑情や男女の離情を歌い、作風は閑雅、艶麗(えんれい)を極める。唐・五代の詞人中、北宋(ほくそう)の詞壇にもっとも大きな影響を与えた。詞集には、宋代に入って外孫の陳世修の編んだ『陽春集』があるが、これには晩唐・五代・北宋前期の詞人の作品が数多く混入している。 謁金門
584 馮道(ふうどう) 882〜954
 瀛州景城(河北)の出身。字は可道、号は長楽。劉守光・李存勗に仕えて荘宗に翰林学士とされ、明宗のときに中書侍郎・平章事とされた。以後、後晋を滅ぼした契丹を含む五朝八姓十一君に仕え、『資治通鑑』『新五代史』など朱子学が主潮となった後世からは破廉恥な無節操漢と排撃されたが、常に人民の安定に尽くし、時人からは寛厚の長者と讃えられ、李卓吾も「孟氏曰く、社稷を重しとなし君を軽しとなす。まことに至言なり。馮道、之を知れり」と絶賛した。 天道
585 南唐中主・李m(りけい) 916〜961
  もとの名を景通。字は伯玉。南唐の二代中主元宗。在位945〜961。南唐の烈祖(李?)の長男。昇元三年(939)、烈祖が呉から独立すると、斉王に封ぜられた。保大元年(943)、烈祖の死後に即位。保大四年(946)に?を滅ぼして福建を併せ、九年(951)には楚を滅ぼして湖南を併せた。しかし後周に圧迫されて、江北十四州を失陥した。このため帝号を去り、国主と称して、領土の保全を図った。文学を愛し、多くの詞を残した。南唐二主のひとり。 浣溪沙
586 南唐後主・李U(りいく) 937〜978
  もとの名を従嘉。字は重光。南唐の三代後主。在位961〜975。南唐の元宗(李m)の六男。はじめ安定郡公に封ぜられ、のちに鄭王に封ぜられた。建隆二年(961)、中主の死後、金陵で即位した。詞や音曲を愛し、国費を遊興にかたむけた。唐の国号を去り、宋に入貢して臣従の姿勢をしめしたが、開宝八年(975)に曹彬率いる宋の南征軍によって滅ぼされた。開封に連行され、違命侯に封ぜられた。太宗の時代になって隴西公となったが、まもなく死去した。毒殺説も根強い。南唐二主のひとり。 虞美人


宋  960年〜1279年

 王朝の興亡と民族の盛衰に伴い、祖国と自民族を想い、壮懐を詩詞句に託した作品が、数多く生まれ、現在に残されています。
  とりわけ、宋代では北方に非漢民族の国家・遼(契丹)、西夏が興り、華北を脅かし、さらに遼の滅亡の後は、女真(後の満州民族)の金が興り、華北を抑え、やがて、靖康之変の後は、漢民族の国家・宋は江南半壁に追いやられた事実があります。(北宋地図) 特に靖康之変後、江南の宋(南宋)は、中原の奪回を目指し、金と、やがては元と抗争し、詞の世界では燃え上がり、媾和に際しては、民族意識が強く盛り上がりました。

北宋(ほくそう、960年-1127年)
趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封。
601  林逋 (りんぽ) 967 - 1028
宋代の詩人。字は君復。 杭州銭塘(浙江省)の出身。若くして父を失い、刻苦して独学する。恬淡な性格で衣食の不足もいっこうに気にとめず、西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ。真宗はその名を聞いて粟帛を賜い、役人に時折見回るよう命じた。薛映・李及が杭州にいたときは彼らと終日政談し、妻子をもたず、庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。行書が巧みで画も描いたが、詩を最も得意とした。一生仕えず盧のそばに墓を造り、「司馬相如のように封禪の書を遺稿として用意してはいない 山園小梅
602 蘇舜欽(そ しゅんきん) 1008- 1048
蘇舜欽(そ しゅんきん、1008年 -1048年)は北宋時代の政治家・文学者。字は子美。銅山(河北省)の出身。参知政事であった蘇易簡の孫でもある。若い頃から世を慷慨し、軍事論を好み大志があった。初めは父の推挙により太廟齋郎に任命され、景祐年間(1034年- 1038年)に進士に合格し、知長垣県をへて大理評事となった。康定年間(1040年 -1041年)、河東に地震があったときに蘇舜欽は上疏し当時の政治の欠陥を論じて范仲淹に認められ、集賢校理となり進奏院を監督し、時の宰相・杜衍の娘を娶るまでになった。多くの学者が修飾の多い美文を書いていた中で、河南の穆修とともに古体による詩を書き、欧陽修の賞賛を得た。草書にも優れていたという。  
603 柳永  (りゅうえい) 987〜1053
 崇安(福建)出身。字は耆卿、原名は三変。景祐元年(1034)の進士で、屯田員外郎となった。詞の作者として当時から著名で、艶詞が多く鄙俗と評されるが、叙情に優れ、従来の短篇詞主体に対して長篇詞を好み、詞史に新生面を与えた。 八聲甘州
604 晏殊   (あんじゅ) 991〜1055
 撫州臨川(江西)の出身。字は同叔。景徳初期の進士で、真宗・仁宗に仕えて軍事・財政改革を進め、1040年に宰相とされた。学校再興など人材育成にもつとめ、門下からは范仲淹らを輩出し、韓g・富弼らを推挙した。文章に優れ、詞の大家としても知られた。 浣溪沙   
605 欧陽脩 (おうようしゅう)  B 1007〜1072
 廬陵(江西)出身。字は永叔、諡号は文忠。苦学して進士に第一甲で及第し、1043年に知諫院とされ、この時に『朋党論』を著した。以後、同修起居注・知制誥と累進したが、杜衍・韓g・范仲淹・富弼らの左遷を極諫した為に地方に出され、12年後に翰林学士に復した。1060年に地方官から枢密副使に復して参知政事に進み、濮議では台諫側の司馬光らと対立した。
 史学に通じ、神宗期に新法に反対して致仕を許されると潁州に隠棲し、六一居士と称して『新唐書』『新五代史』を著した。周・漢以後の金石文を注解した『集古録』を著して金石学の祖とされ、又た韓愈の文章を高く評価して古文復興にも尽くした。唐宋八大家の1人とされる。
日本刀歌  蝶戀花
606 曾鞏   F   (そうきょう) 1019〜1083
 建昌南豊(江西)の出身。字は子固、号は南豊先生。太学時代に欧陽脩に認められ、嘉祐2年(1057)に進士に及第すると実録編纂官などを務めた後、地方官を歴任した。王安石と親交があったが、新法実施には反対し、1082年に中書舎人となった。唐宋八大家の1人。 虞美人草  西樓
607 司馬光  (しばこう) 1019〜1086
司馬光 1019〜1086
 陝州夏県(山西)の出身。字は君実。宝元元年(1038)の進士で、濮議では名分を重んじて皇伯論を主張した。神宗が即位すると翰林学士・御史中丞となったが、新法に反対して地方に転出し、後に勅命で『資治通鑑』を編集した。哲宗が即位すると皇太后の庇護を得て尚書左僕射に復し、すべての新法を廃して社会を混乱させた末、在任8ヶ月で病死して温国公を追贈された。後に元佑党人として官位を剥奪され、北宋末に名誉が回復された。
居洛初夏作
608 王安石   G  (おうあんせき) 1021〜1086
 撫州臨江(江西)の出身。字は介甫、号は半山。慶暦2年(1042)の進士。主に地方官を歴任して治績を挙げ、いちじ中央に召されて仁宗に“万言書”を上呈したが、狷介さを忌まれて用いられなかった。神宗が即位すると知江寧府とされ、治績を認められて翰林学士をへて1069年に参知政事とされ、制置三司条令司を新設し、新法を逐次実施して翌年には同平章事とされた。
 新法は主に中・下級の農民や商人を庇護して経済力の再建を図るもので、財政・治安に実績を挙げたが、国制を根本から再編する政策であったため、既得権を侵された地主・豪
泊船瓜洲  鍾山即事  夏日即事  桂枝香    
609 蘇洵(そじゅん) C 1009〜1066
  眉州眉山(四川)の出身。字は明允、号は老泉。晩学で科挙には失敗したが、読書に励んで論文を著し、欧陽脩に認められて諸文士と交流した。議論文を得意とし、『太常因革礼』編纂に参加し、完成直後に歿した。唐宋八大家の1人。 春夜  水調歌頭  飮湖上初晴後雨
610 富弼(ふひつ) 未詳〜1083
   
611  蘇軾(蘇東坡)   D   (そとうば) 1036〜1101
 眉州眉山の出身。字は子膽、号は東坡。蘇洵の子、蘇轍の兄。嘉祐2年(1057)の進士。夙に将来を嘱望され、英宗期に判登聞鼓院、直史館とされたが、神宗期に新法に猛反対して杭州通判など地方官を歴任し、1079年には詩文中で時政を誹謗したとして黄州に配流された。元佑年間には翰林学士・侍読とされ、募役法の廃止に反対して知杭州に転出し、1092年に礼部尚書に復したが、紹聖以降は恵州ついで瓊州(海南島)に流され、常州で客死した。
 文人としても著名で、父・弟とともに“三蘇”と称され、“大蘇”とも呼ばれた。線の太い詩は宋代文学の最高峰とされ、『赤壁賦』は黄州配流時に創られた傑作。唐宋八大家の1人。
念奴嬌   江城子  春夜  澄邁驛通潮閣二首   飮湖上初晴後雨  六月二十七日望湖樓醉書  和陶飮酒  題西林壁  江城子  浣溪沙  水調歌頭
612 蘇轍   E   (そてつ) 1039〜1112
 字は子由、号は潁浜。蘇軾の弟。嘉祐2年(1057)の進士。新法の実施時には三司条令司の書記とされたが、青苗法に反対して河南推官に遷され、蘇軾に連坐して南方に流された。元佑年間に右司諫から吏部尚書、門下侍郎と進んで新法派を排斥したが、紹聖以降は広南に左遷され、後に河南許州に隠棲した。兄に劣らぬ直言家だったが、旧法派の主流とは距離を措いて部分的に新法を認め、役法・西夏対策などにも見識を有した。文人としても兄と並んで知られ、“小蘇”と呼ばれた。唐宋八大家の1人。 李公麟山荘図
613 宋江  (そこう) 生没年不詳
宋 江(そう こう、SòngJi?ng、生没年不詳)は、北宋末の1121年に現在の山東省近辺で反乱を起こした人物。また、その反乱事件に取材した小説で中国の四大奇書の一つである『水滸伝』では主人公となっている。 西江月
614 李師師(りしし) 生没年不詳
 芸妓
615 孫覿(そんてき) 1081年〜1169年
 北宋時代(960〜1127)に活躍。幼くして蘇軾に才能を見出されたといわれる。 再宿楓橋
616 張元幹(ちょうげんかん) 1091〜不明
両宋期の豪放な作風の詞人(1091年〜不明)字は仲宗、号は葦川居士。長楽(現福建内)の人。対金主戦論者で、媾和に反対し、やがて退けられる。 石州慢
南宋
(なんそう、1127年 -1279年)
趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)。
651 岳飛(がくひ) 1103〜1141
 相州湯陰(河南)の出身。字は鵬挙。農民の出で、北宋末の義勇軍召募に応じて宗沢に認められ、軍功を重ねて1133年に 精忠岳飛 の宸筆の旗を下賜され、翌年には清遠軍節度使とされ、崇信軍節度使・武昌郡開国侯に進んだ。湖北路・荊襄の制置使とされて金軍をことごとく撃退し、1140年には東京副留守の劉リを支援して宗弼を大破すると開封に迫ったが、和平を急ぐ秦檜によって1日12使の金字牌を送られて已むなく撤退した。
 当時、岳飛の軍(岳家軍)は最強の精鋭として知られ、開封を堅守した宗沢とともに金軍から 爺々 の尊称を受けた唯二人で、「山を動かすは易く、岳家軍を動かすは難し」とも評された。当時の軍閥は官僚と不和で、軍閥間でも対立があり、年少で矜持の強かった岳飛は孤立気味で、これに乗じた秦檜によって1141年に枢密副使とされて軍を解体され、同年、和平交渉の為に冤罪で獄死させられた。1178年に武穆と諡名され、1204年には岳王と追封され、後に岳王廟に祀られて1914年以降は関羽とともに武廟に合祀された。
滿江紅   題新淦蕭寺壁  送紫岩張先生北伐  題青泥市寺壁   池洲翠微亭   送紫岩張先生北伐   滿江紅   小重山   
652 呂祖謙(りょそけん) 1137〜1181
呂 祖謙(りょ そけん、1137年 -1181年)は、中国南宋時代の儒学者。字は伯恭。東?先生と称される。?州(浙江省金華県)の出身。学者の家に生まれ林之奇・汪応辰・胡憲などに学ぶ。1163-64年に進士となり、同時に博学宏詞科にも合格する。太常博士に國史院編修官・実録院検討官となり、領土の回復を孝宗に説き聖学について論じ、『徽宗実録』では政治についても述べている。当時出版界では『聖宋文海』という誤謬の多い書が出回っており、孝宗が臨安府にこの本の校正・刊行を命じたところ、学士・周必大はその事業が困難であると説いたが呂祖謙は仕事を完成させ、『皇朝文鑑』の名を賜った。1178年に官著作郎に任命され、国史院編修官を兼ねていたが、その年に54歳で没する。同時代の張?・朱子を友とし、東南の三賢と並び称された。博識で文辞が豊かであり、詩書春秋では古義を究め、十七史に通じていた。朱熹と対立する学説を主張する陸象山とを仲介し、対論させた(鵝湖の会)。  
653 張拭(ちょうしょく) 1133- 1180
張?(ちょう・しょく、1133年 -1180年)は中国・南宋の儒学者・政治家。字は敬夫、または楽斎。南軒先生と称せられる。広漢(四川省)の出身。宰相・張浚の子として生まれ、将来の大儒を目指して胡宏(五峰)に学ぶ。初めは直秘閣に任じられ、その後は地方官を歴任し、中央に戻ってからは吏部侍郎から右文殿修撰になった。金に対して主戦論を保持し、たびたび国防・民政に関する上奏を奉じ、宰相・虞允文からは疎まれたが孝宗の信任は厚かった。王夫之は『宋論』のなかで張?を「古今まれに見る大賢ではあるが、王安石以来の人材迫害・言論弾圧に懲りて世間を離れることに努め、才能を振るおうとしなかった」と惜しんでいる。張?の学問は、二程(程・程頤)を承け、朱熹との交友で発達した。『論語』『孟子』の解釈で見るべきものがある。著として『南軒集』44巻、『南軒易説』・『伊川粋言』・『癸巳論語解』・『癸巳孟子説』がある。  
654 陸象山(りくしょうざん) 1139〜1192
陸象山(りく しょうざん、1139年 - 1192年)は、南宋の儒学者・官僚。名は九淵、字は子静。象山は号。江西省金谿の人。朱子と同時代に生き、その論敵として知られる。その一族はおよそ二百年間にわたり何世代もが同居することで有名であり、時の王朝より義門(儒教的に優れた一族)として顕彰された。象山の兄二人も著名な学者で兄弟を三陸と称することもある。進士に及第後地方官・中央官として経験を積んだ。49歳の時、江西省の応天山に私塾をひらき、そこで講学を行ったが、その数年後肺結核のため世を去った。  
655 朱熹(朱子)(しゅき) 1130〜1200
宋代(南宋)の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚は文公。「朱子」の尊称で呼ばれている。儒教の体系化を図った儒教の中興者で朱子学の創始者である。朱子学やその後、明の時代に学問部分が国教と定められた。また、日本にも輸出されて江戸時代には幕府も朱子学を尊重した。 勸學文   偶成詩   
656 陸游(りくゆう) 1125〜1209
 越州山陰(浙江)の出身。字は務観、号は放翁。夙に文才を賞揚されていたが、科挙で秦檜の一族の上位にあったために憎まれて及第できず、官人としては不遇だった。秦檜の死後に同進士を賜り、46歳で王炎の推挙で通判として入蜀し、後に宰相の周必大に認められてより要職を歴任したが、しばしば韓?胄と衝突して左遷された。四川では范成大と交流し、晩年には修史事業に参画して孝宗・光宗実録を完成させ、1190年以降は故山に隠棲した。蜀に赴任する際に記録した158日間の旅行記は後に『入蜀記』として全6巻に編纂され、風物のみならず歴史評論にも及び、名著と評されている。 示兒   十一月四日風雨大作   金錯刀行   秋夜將曉出籬門迎涼有感   書憤   塞上曲   北望   劍門道中遇微雨
關山月   古意   遊山西村   病起書懷   灌園   感事   龍興寺弔少陵先生寓居   樓上醉歌   隴頭水   追感往事   書事   秋興  識識    夜讀范至能攬轡録言中原父老見使者多揮涕感其事作絶句  春游   小舟遊近村捨舟歩歸   秋風亭拜寇莱公遺像   山南行   客從城中來   聽雨   望江道中   小園 其三   貧甚戲作絶句其六   秋懷   書事   春晩懷山南   村飲示鄰曲   沈園二首其一   沈園二首其二
657 唐椀(とうわん)  未詳
南宋第一の詩人といわれる陸游(1125〜1209)と彼の最初の妻唐椀とのロマンスは中国では広く知られた物語である。陳舜臣の「中国の歴史」参照
陸游は20歳のとき母方の縁につらなる唐?と結婚した。夫婦仲は睦まじかったが,なぜか唐?が陸游の母親から嫌われ(一説には,夫婦仲がよすぎたからとも,またこどもが出来ず,それについてうそのつげ口をされたからともいわれる),1年ほどで離縁させられてしまった。内緒で家を借り隠れて逢っていたが,それも母親の見つかるところとなり,以後会うことができなくなった。やがて唐?は宋の帝室につながる趙士程に再嫁,陸游も王氏と再婚した。
釵頭鳳の返歌 山盟(堅い誓い)在ると雖も
658 辛棄疾(しんきしつ) 1140〜1207
政治家・詞人。字は幼安、号は稼軒(かけん)、歴城(現在の山東省済南市)の人。
 歴城(山東)出身。字は幼安、号は稼軒。華北に住し、采石磯の役での金軍の動揺に乗じて挙兵すると初めは耿京に従い、耿京が張安国に殺されると安国を捕えて宋に帰順し、承務郎とされた。孝宗期には各州知事を、後に湖北・江西・湖南の安撫使を歴任し、任地の治安民政を安定させた。主戦論者だったために和平派の弾劾で罷免され、まもなく浙東安撫使・鎮江知府に任命されたが、勅使到着前に歿した。朱熹とも親交があり、朱熹の歿した際には偽学の禁を冒して追悼・埋葬した。政治家としては大成しなかった辛棄疾であるが、文人としては名声を博し、金に対抗し宋による故地回復を願った文章を数多く残している。また様々な題材での詞・漢詩も残しており『稼軒集』などが現在に伝わっている。北宋の蘇軾と並び「蘇辛」と称されることもある。検索エンジン「百度」の社名は、彼の作品『青玉案』に由来。
菩薩蠻 書江西造口壁
659 戴復古(たいふくこ) 1167〜不詳
戴復古:南宋1167年〜(没年不詳)の詩詞人。字は式之。号は、故郷の南塘の石屏山に隠棲したことに因み、石屏と称する。天台黄岩(現・浙江省)の出身。江湖派の詩人として有名。
  江湖派とは、南宋中期、後期の詩歌流派の一で、進士試験の落第生や野にある知識人で、「江湖を流離った人々」の意の流派。時の中央の詩壇に対して、下層社会(江湖)の中に出来あがった下層知識人の詩壇。その名の由来は、陳起が江湖(世間)の作品を集めて『江湖集』をはじめとして、『江湖×集』『江湖○集』という風に、出版を続けたことによる。
江陰浮遠堂  柳梢
660 周密(しゅうみつ)  未詳
南宋の文学者。字は公謹。号して草窓、泗水潜夫…。官は義烏令。済南(現・山東省・済南)の人。宋の南渡(南宋)後、湖州の呉興(現・浙江省・呉興)の滅亡後、節を守って仕官しなかった。1232年〜1298年。『絶妙好詞』などを遺す。 秋日即事
661 陳亮 (ちんりょう) 1143〜1194
  中国、南宋の思想家・文学者。永康(浙江(せっこう)省)の人。字(あざな)は同甫(どうほ)。号、竜川(りゅうせん)。孝宗のとき、金との和議に反対する「中興論」を上奏したが採用されず、帰郷。経世済民のための学を主唱して朱熹(しゅき)と議論を交えた。著「竜川文集」「竜川詞」。 水調歌頭 送章コ茂大卿使虜
662 杜秉(とへい)  
  寒夜
663 張元幹(ちょうげんかん) 1091〜不明
 両宋期の豪放な作風の詞人(1091年〜不明)字は仲宗、号は葦川居士。長楽(現福建内)の人。対金主戦論者で、媾和に反対し、やがて退けられる。 賀新郎    石州慢   
664 張孝祥(ちょうこうしょう) 1132〜1169
:南宋の愛国詞人。(1132〜1169)字は安國、号は于湖居士。歴陽烏江の人。本を一度読んだだけで覚えた、という伝説の持ち主で、廷試(科挙の最高考査)第一となる。官吏として歴任し、対金主戦論で退けられる。詞は、高らかに民族の情を歌い上げているものが多い。三十八歳で亡くなる。 六州歌頭    
665 眞山民(しんさんみん) 1274頃
眞山民については,詳しいことは分からないらしい。南宋末から元にかけて生存したと伝えられる隠者。詩集が残る以外全く分からない。姓名も不明で,山民と自称し,南宋の儒者眞徳秀(1178−1235)の子孫らしいというので,眞山民と呼ばれる。1274頃
  中国宋末の進士で哲学者である。名は桂芳(けいほう)といい、出身地などくわしいことはわからない。宋末の遺民で世を逃れ、人に知られることを求めず、自分で山民とよぶ。歐陽修、朱熹、蘇東坡と共に宋代の代表的詩人といわれ、特に敍景詩にすぐれている。 
山中月   錢塘懷古
666 楊萬里  (ようばんり) 1127〜1206
吉州吉水の出身。字は延秀、号は誠斎先生。紹興24年(1154)の進士。光宗・熹宗の近侍官を歴任し、朱熹ら60余人の人材を勧めたが、晩年は韓?冑と対立して寧宗に忌避された。詩人としては南宋四大家の1人で、はじめは江西派の詩を学び、後に誠斎体と呼ばれる独自の詩風を確立した。 夏夜追涼
667 劉克莊  (りゅうかつそう) 1187〜1269
南宋末期の江湖派の詞人。1187年(淳煕十四年)〜1269年(咸淳五年)。字は潜夫。号は後村居士。福建・田の人。建陽の県尉となり、その才で、進士待遇となる。 滿江紅   玉樓春   賀新カ
668 文天祥(ぶんてんしょう) 1236〜1282
 吉水(江西)出身。字は宋瑞・履善、号は文山。宝祐4年(1256)の科挙に状元で及第した。1259年のモンゴルの四川侵攻の際、遷都派を弾劾して罷免され、後に起用された時も賈似道を嫌って下野した。1274年に復官し、モンゴル軍の南征に対し義勇軍を組織して各地を転戦し、後に右丞相・枢密使に抜擢されて講和使節とされたが、才気を惜しまれて拘留された。臨安陥落後に脱走して益王に合流したが、陳宜中らと不和となって江西地方を転戦中に再びモンゴル軍に捕われ、大都にではフビライの説得にも最後まで臣従を拒み、在獄3年で処刑された。著名な『正気の歌』は獄中の作。 過零丁洋   ?江月
669 謝枋得  (しゃほうとく) 1226〜1289
信州弋陽(江西)の出身。字は君長、号は畳山。宝祐年間に進士に合格したが、辞退して賈似道を弾劾した。後に宋朝回復の計に失敗して福建でモンゴル軍に捕われ、臣従を拒んで北京で絶食死した。 南宋の政治家。弋陽(よくよう)(江西省)の人。字(あざな)は君直。号は畳山。元との戦いに敗れて捕らえられたが節を曲げず、絶食死した。著「文章軌範」。 初到建寧賦詩
670 海陵王・完顏亮  (かんがんりょう) 480〜494
 第四代君主。諱は昭文、字は季尚。鬱林王の次弟。鬱林王の即位により新安王とされ、翌年に鬱林王が廃されると蕭鸞(明帝)に迎立されたが、冬には廃弑された。 呉山
  
  金
681 元好問   (がんこうもん) 1190〜1257
 太原秀容の出身。字は裕之、号は遺山。幼時より詩文に長じ、金に仕えて元には応じず、金史編纂のために自ら各地で資料を収集し、後の『金史』編纂で多く利用された。 岐陽

 元
685 馬致遠  (まあちえん) 生没年未詳。
元初の劇作家。大都(北京)の人。号、東籬(とうり)。元曲四大家の一人。王昭君を主題とした雑劇「漢宮秋」で有名。ほかに散曲を集めた「東籬楽府(がふ)」がある。 〔越調〕天淨沙 秋思 

 
686 太祖・朱元璋(しゅげんしょう) 1328-1398
朱元璋(、天暦元年9月18日(1328年10月21日) -洪武31年閏5月10日(1398年6月24日)、在位:1368年 -1398年)は、中国の明朝の創始者であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊コ成功高皇帝。その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八(しゅじゅうはち)といい、後に朱興宗(しゅこうそう)と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。 無題
687 高啓 (こうけい) 1336- 1374
明初の詩人。幼少より神童と呼ばれ、「書は読まざるなし」といわれたほどの博学で知られた。約2,000首の詩を作ったといわれている。一時、太祖に仕えていたが辞し、蘇州郊外の青邱に戻り在野の詩人として活躍した。しかし、太祖を諷刺した詩や、友人で蘇州知事でもあった魏観のために書いた文章が禍して腰斬の刑に処せられた。  尋胡隱君
688 于謙  (うけん) 1398- 1457
進士出身の明の政治家。土木の変で明の皇帝英宗がオイラト部のエセンに捕らえられると、英宗の弟の景泰帝を擁立し、北京に迫ったエセンの軍を撃退した。 石灰吟
689 方孝孺 (ほうこうじゅ) 1357- 1402
明初の儒学者。才能豊かで建文帝から重用された。その恩を忘れず、次代の永楽帝の怒りを買って処刑された。 閑居感懷
690 文嘉 (ぶんか) 1501- 1583
明の書家、画家、文人。明代四大家のひとりである文徴明の次男であり、山水画を得意とした。石刻は明代の第一といわれ、また書画や器物の鑑定家としても活躍した。 明日歌
691 王陽明 (おうようめい) 1472- 1529
明の儒学者、思想家。朱子学を批判的に継承し、学問のみで理に到達することはできないとし、仕事や日常生活の中での実践を通して心に理を求める「実践儒学陽明学」を起こした。 睡起偶成
692 海瑞 (かいずい) 1514- 1587
明の官僚。時の嘉靖帝に対して激しい直諫を行って投獄された。清廉潔白な官僚として評価されている。 廣州西樵山蒼頡祠
693 劉基 (りゅうき) 1311- 1375
元末〜明初の政治家、詩人、軍師。朱元璋に仕えて明を建国する際に大きな功績を上げ、その後の明を安定させることに尽力した。また、宋濂と並んで文筆家としても名を馳せ、その著書として『郁離子』十巻、『覆?集』二十四巻、『写情集』四巻、『犁眉公集』五巻を後世に残す。 絶句 臨江仙

 清・近現代    1644〜
701 呉偉業(ごいぎょう)  1609- 1671
明末〜清初の詩人。その詩は、初唐の華麗な作風に倣って才気にあふれ、亡国の悲劇を経験してからは作風に悲壮美を加えるようになった。動乱を詠んだ哀切なる史詩が多い。銭謙益、鼎孳とともに「江左の三大家」と称される。 遇南廂園叟感賦八十韻
702 顧炎武(こえんぶ)  1613- 1682
明末〜清初の儒学者。明の滅亡に際して反清運動に参加した。旧来の観念論的な性理学や心学を批判し、同時代の資料を重視する実証的な経書研究法を樹立。考証学の開祖ともいわれている。 海上
703 和紳(かしん) 1613- 1682
明末〜清初の儒学者。清の政治家。乾隆帝、嘉慶帝の二帝に仕えた。軍機大臣として専横の限りを尽くし、莫大な財産を残したことでも知られている。 絶命詩
704 洪秀全(こうしゅうぜん) 1814- 1864
清の宗教家、革命家。キリスト教を基にした宗教教団「拝上帝会」を興し、天王を自称。南京を首都として清に反旗を翻し、国号を太平天国とした(太平天国の乱)。 吟劍詩
705 譚嗣同(たんしどう) 865- 1898
清末の改革主義者、民族主義者、哲学者。戊戌変法に参加したが、戊戌政変に遭遇して捕らえられ、33歳の若さで刑死した。 夜泊
706 張之洞(ちょうしどう) 1837- 1909
清末の政治家。洋務派官僚として重要な役割を果たした。曽国藩、李鴻章、左宗棠と並び「四大名臣」とも称される。近年になって改めて評価され、2006年には張之洞記念館が設立された。 四月下旬過崇效寺訪牡丹花已殘損
707 黄遵憲(こうじゅんけん) 1848- 1905
清末の詩人、外交官、政治改革者。知日家であり、清末を代表する詩人としても知られる。 贈梁任父同年
708 孫文(そんぶん) 1866- 1925
清末〜民初の政治家、革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こした「中国革命の父」として知られる。 無題(半壁東南三楚雄)
709 梁啓超(りょうけいちょう) 1873- 1929
清末〜民初の政治家、ジャーナリスト、歴史学者。戊戌の変法に失敗、日本に亡命したが、辛亥革命後に帰国し政界活動を再開した。 讀陸放翁集
710 秋瑾(しゅうきん) 1875- 1907
清末の女性革命家、詩人。18歳のときに結婚したが、義和団運動に発憤して家庭を捨てて、日本に留学し、反清革命運動に身を投じた。1905年、日本政府が出した「清国留学生取締規則」に憤激し、留学を打ち切って帰国。その後も革命運動を続けたが処刑された。 對酒
711 魯迅(ろじん) 1881- 1936
民国の小説家、翻訳家、思想家。代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。日本に留学して医学を志したが、後に文学に転じた。 自嘲
712 老舎(ろうしゃ) 1899- 1966
民国〜中華人民共和国の小説家、劇作家。北京の町と人々をこよなく愛し、「北京之花」「人民芸術家」「語言大師」と称された。代表作に小説『駱駝祥子』『四世同堂』、戯曲『龍鬚溝』『茶館』などがある。 琵琶湖遠望
713 毛沢東(もうたくとう) 1893- 1976
中華人民共和国の政治家、軍人、思想家。中国共産党の創立党員であり、中華人民共和国の建国の父とされている。 蝶戀花 答李淑一



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