中国の時代と詩人のたち |
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01 | 孟城幼(土幼):窪 |
もうじょうおう | |||
詩 | 新家孟城口、 |
新たに家(いえ)す 孟城の口(ほとり) 古木は衰柳(すいりゅう)を余(あま)せり 来者(らいしゃ)は復(ま)た誰と為(な)す 空しく悲しむ昔人(せきじん)の有ゆう |
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解説 | 罔川荘の北の入口から南の奥のほうへ向かって並べられており、「孟城」は入り口付近にあった古城址です。「?」(おう)は窪地という意味で、そこに王維は新しい家を建てたのでしょう。しかし、王維が詠っているのは家のことではなく、その家もやがて誰かの手に移ってしまうであろうという無常感です。 | ||||
02 | 華子岡 |
かしこう | |||
詩 | 飛鳥去不窮、 |
飛鳥(ひちょう)は去って窮(きわ)まらず 連山 復(ま)た秋色(しゅうしょく) 華子岡を上下すれば 惆悵(ちゅうちょう)して情(じょう)何んぞ極まらん |
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解説 | 「華子」は華子期という仙人の名前からきたそうですが、仙人と岡との関係はわかっていません。王維の詩は起句と結句に「不窮」と「何極」を照応させて、世に在る者の去った者への追慕の情を詠いあげています。華子岡を上り下りしながら思い出すのは、亡くなった母や妻のことでしょう。 | ||||
03 | 文杏館 |
ぶんきょうかん | |||
詩 | 文杏裁為粱、 |
文杏を裁(た)ちて粱(はり)と為(な)し 香茅(こうぼう)を結んで宇(いえ)と為す 知らず 棟裏(とうり)の雲 去って人間(じんかん)の雨と作(な)るを |
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解説 | 文杏館は華子岡を過ぎたところにあった建物のようです。「文杏」という材、「香茅」という草で家を作ったと詠うのは、文杏館を仙人の家と見立てているからでしょう。だから棟のあたりに雲が湧き、「人間」(人の世)の雨となるのかと、王維は俗世間を皮肉に見ています。 | ||||
04 | 斤竹嶺 |
(きんちくれい) | |||
詩 | 檀欒映空曲、 |
檀欒(だんらん) 空曲(くうきょく)に映じ、 青翠(せいすい) 漣猗(れんい)に漾(ただよ)う。 暗(あん)に商山(しょうざん)の路に入るを、 樵人(しょうじん)も知る可からず。 |
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解説 | 斤竹嶺は文杏館の背後の山で、「斤竹」は竹の一種と見られています。詩中の「商山」は終南山の連山のひとつで、隠遁の山として有名です。王維はこのまま山路をたどっていくと、誰の目にもつかずに商山に辿りつけると、隠遁への志を述べています。 | ||||
05 | 鹿柴 |
(ろくさい) | |||
詩 | 空山不見人、 |
空山(くうざん) 人を見ず、 但だ人語(じんご)の響くを聞くのみ。 返景(へんけい) 深林(しんりん)に入り、 復(ま)た青苔(せいたい)の上を照らす。 |
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解説 | 「鹿柴」は鹿を飼ってある場所で、囲いの柵があります。しかし、詩中に鹿は出てこず、山中の静けさと、そのなかで夕陽が深い林の中にさし入って青い苔を照らし出している印象的な点景だけを描いています。 | ||||
06 | 木蘭柴 |
(もくらんさい) | |||
詩 | 秋山歛余照、 |
秋山(しゅうざん)は余照(よしょう)を歛(おさ)め、 飛鳥(ひちょう)は前侶(ぜんりょ)を逐(お)う。 彩翠(さいすい) 時に分明(ぶんめい)にして、 夕嵐(せきらん)の処(お)る所無し。 |
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解説 | 「木蘭」は木犀に似た香りのよい木で、柵で囲んで植えてあったようです。?川荘といっても家や庭だけでなく、植物園も点在している荘園のようなものであったとみられます。王維の詩は非常に繊細な表現で、「彩翠」というのは美しく色づいた秋の草木の中に緑の部分がときどき鮮やかに見えるというのでしょう。「嵐」は中国では靄(もや)のことで、日本語の「あらし」は中国では「風雨」と書きます。 | ||||
07 | 茱萸畔(シ片) |
(しゅゆはん) | |||
詩 | 結実紅且緑、 |
実を結びて 紅(くれない)且つ緑なり、 復(ま)た 花の更に開くが如し。 山中に儻(も)し客を留(とど)めば、 此の茱萸(しゅゆ)の杯を置かん。 |
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解説 | 「茱萸畔」は茱萸の植わっている岸辺という意味です。茱萸(しゅゆ)は日本では「ぐみ」と読まれますが、日本のグミとは違うもので、葉は椿に似て厚みがあるそうです。陰暦三月に花が咲き、花の色は紅紫といいます。七、八月に実を結び、実は「はじかみ」に似ていて、はじめは微黄色をしていますが、九月九日の重陽節のころには赤色を呈しているそうです。王維はそうした実の色の変化を珍しいものとして詠っています。?川荘にも客があるらしく、王維は茱萸の木で作った杯が必要だと嬉しそうです。 | ||||
08 | 宮塊陌 |
(きゅうかいはく) | |||
詩 | 仄径蔭宮槐、 |
仄径(そくけい)は宮槐(きゅうかい)の蔭にして、幽陰(ゆういん)に緑苔(りょくたい)多し 膺門(ようもん)は但だ迎掃(げいそう)す 山僧の来(きた)る有るを畏(おそ)る |
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解説 | 「陌」はあぜ道のことで、槐の木の生えている小径と解されます。山寺の僧がやって来るというので、「膺門」(門番)が一心に掃除をしており、王維はその姿をあたたかく描いています。掃いているのは門前の落ち葉でしょう。 ?川荘のある地域のほぼ中央に「欹湖」(いこ)という湖があり、裴迪は宮槐陌が欹湖に通ずる道であることを述べています。王維が掃除に余念のない門番を描いている |
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09 | 臨湖亭 |
(りんこてい) | |||
詩 | 軽舸迎上客、 |
軽舸(けいか)もて上客を迎え 悠悠(ゆうゆう) 湖上に来(きた)る 軒(けん)に当たって尊酒(そんしゅ)に対するに 四面(しめん) 芙蓉(ふよう)開く |
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解説 | 臨湖亭は欹湖の岸辺の水上に建っていました。王維は久し振りに「上客」を迎えて嬉しそうです。この詩では舟で臨湖亭に来たと言っているのか、舟上で客をもてなしているのかあいまいです。「軒」は日本では「のき」ですが、中国では「のき」の場合と「窓の手すり」の場合があります。ここでは「窓の手すり」でしょうが、「軽舸」に窓はないでしょうから、やはり臨湖亭で客をもてなしているのでしょう。池は蓮の花の花ざかりでした。 | ||||
10 | 南 陀 |
(なんだ) | |||
詩 | 軽舟南陀去、 |
軽舟(けいしゅう)もて南陀に去(ゆ)く 北陀はE(びょう)として即(つ)き難し 浦(ほ)を隔てて人家を望めど 遥遥(ようよう)として相い識(し)らず |
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解説 | 「南?」は欹湖の南岸にある建物で、臨湖亭から小舟で湖を渡って行ったのでしょう。王維は湖が広くて奥深いことを描いています。 | ||||
11 | 欹 湖 |
(いこ) | |||
詩 | 吹簫凌極浦、 |
簫(しょう)を吹いて極浦(きょくほ)を凌(しの)ぎ 日暮(にちぼ)に夫(か)の君を送る 青山(せいざん)に白雲(はくうん)巻けり 湖上 一たび首(こうべ)を回(めぐ)らせば |
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解説 | ?川荘のほぼ中央部に位置するのが「欹湖」で、湖岸の南に南?、北に北?があったようです。北が?川の入口に近いので、長安から来た客は北から南へ奥まってゆくことになります。王維の詩は「上客」を見送る作品でしょう。舟には裴迪も同乗していたらしく、転結句において、王維は周囲の山の姿を描き、裴迪は吹いて来る風を描いて唱和の妙を発揮しています。 | ||||
12 | 柳 浪 |
(りゅうろう) | |||
詩 | 行分接綺樹、 |
行(こう)分かれて綺樹(きじゅ)接し 倒影して清猗(せいい)に入れり 学ばず 御溝(ぎょこう)の上(ほとり) 春風に 別離を傷(いた)むことを |
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解説 | 北?と臨湖亭は流れを隔てて向かい合う位置にあり、それぞれの岸辺に柳が生えていたようです。王維の詩の「行分」は、そのことを言っています。さざ波に柳が逆さに影を映しているというのは王維の好む表現であったようです。世を離れた山荘の柳だから、長安の城の堀端の柳のように左遷や転勤で別れを悲しむ必要もないと、山居の気楽な暮らしを肯定しています。 | ||||
13 | 欒家瀬 |
(らんからい) | |||
詩 | 颯颯秋雨中、 |
颯颯(さつさつ)たる秋雨(しゅうう)の中(うち) 浅浅(せんせん)として石溜(せきりゅう)に瀉ぐ 波は跳(おど)って自(おのずか)ら相い濺(そそ)ぎ 白鷺(はくろ)は驚きて復(ま)た下(くだ)れり |
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解説 | 「欒家瀬」は早瀬の名で、臨湖亭の奥、「柳浪」の柳の近くにありました。王維の詩は水しぶきに驚いて白鷺が飛び立つが、また降りてくると観察の鋭さを示しています。役人生活への比喩を含んでいるのかも知れません。 | ||||
14 | 金屑泉 |
(きんせつせん) | |||
詩 | 日飲金屑泉、 |
日々(ひび)に金屑泉を飲めば 少なくとも当(まさ)に千余歳ならん 翠鳳(すいほう) 文蛟(ぶんこう)を翔(はし)らせ 羽節(うせつ)もて玉帝に朝(ちょう)せん |
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解説 | 屑泉は欒家瀬の近くにあった泉で、「金屑」は金の細片、仙薬のひとつとされていました。薬効のある湧き水として、この名をつけたもののようです。王維の詩は泉の水を飲んで長生きをし、仙人になって天帝にお目通りしようと、金屑泉の水の良質なことをほめています。 | ||||
15 | 白石灘 |
(はくせきたん) | |||
詩 | 清浅白石灘、 |
清浅(せいせん)なり 白石の灘 緑蒲(りょくほ)は把(と)るに堪うるに向かえり 家は住(じゅう)す 水の東西 紗(さ)を浣(あら)う 明月の下(もと) |
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解説 | 「白石灘」は白い石のある浅瀬で、南?と竹里館のあいだにありました。そこには蒲(がま)も生えていたようです。王維の詩の転結句は楽府(がふ)的な口調になっており、川に紗をさらしにきている村娘が王維の問いに答える形式になっています。 | ||||
16 | 北 陀 |
(ほくだ) | |||
詩 | 北陀湖水北、 |
北陀は湖水の北 雑樹(ざつじゅ) 朱欄(しゅらん)に映(えい)ぜり 逶斜(いしゃ)たり 南川(なんせん)の水 明滅す 青林(せいりん)の端(たん) |
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解説 | 北?は欹湖の北岸にある建物であることは、さきに触れました。だから?川荘を北の入口のほうから描いていくとすれば、南?よりは先に出てこなければならないのですが、ここに出てくるのは裴迪の詩が南山と関係があるからのようです。王維の詩は北?そのものを描いて王維らしいこまやかな観察が目立ちます。 | ||||
17 | 竹里館 |
(ちくりかん) | |||
詩 | 独坐幽篁裏、 |
独り坐す 幽篁(ゆうこう)の裏(うち) 琴(きん)を弾じ 復た長嘯(ちょうしょう)す 深林(しんりん) 人知らず 明月来(きた)って相い照らす |
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解説 | 竹里館は竹林のなかに建っている建物で、王維の詩は『?川集』のなかでも名作のひとつに数えられています。「幽篁」は楚辞のなかにある言葉で、幽は人界ではない幽界の意味を含んでいます。「人知らず」は深い林の中のことであるので人は知らないであろうが、名月が近くまでやってきて私を照らしてくれると、名月は擬人化され、王維と交感する心境が詠われています。 | ||||
18 | 辛夷塢 |
(しんいお) | |||
詩 | 木末芙蓉花、 |
木末(こずえ)の芙蓉花(ふようか) 山中(さんちゅう) 紅萼(こうがく)を発す 澗戸(かんこ) 寂(せき)として人無し 紛紛(ふんぷん)として開き且つ落つ |
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解説 | 辛夷塢は辛夷の植えてある土手のことです。「辛夷」は日本では「こぶし」と読んでいますが、中国では白木蓮(はくもくれん)を指すようです。「芙蓉」は蓮の花のことですから、王維の詩は木蓮の花を梢に咲く蓮の花のようだと詠っているわけです。その花は白ではなく紅であったらしく、ひと気のない山中で花だけが咲き乱れ、散っていくようすを印象的に詠っています。 | ||||
19 | 漆 園 |
(しつえん) | |||
詩 | 古人非傲吏、 |
古人(こじん) 傲吏(ごうり)に非(あら)ず 自ら経世(けいせい)の務めを闕(か)けり 惟(た)だ一微官(いちびかん)に寄りて 婆娑(ばさ)たり 数株(すうしゅ)の樹(じゅ) |
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解説 | 漆園はうるしの木の植えてある畑で、?川荘の一番奥にあったようです。漆園といえば、当然荘子が出てくるわけです。荘子は粱の蒙(荘子の生地)で漆園の管理をする小役人をしていました。王維は荘子のようにささやかな地位に身を置いて、「婆娑」はしどけないさまのことをいうのですが、つまり衣冠に身を飾らずに自然な姿で生きていると詠っています。 | ||||
20 | 椒 園 |
(しょうえん) | |||
詩 | 桂尊迎帝子、 |
桂尊(けいそん)もて帝子(ていし)を迎え 杜若(とじゃく)を佳人(かじん)に贈る 椒漿(しょうしょう)を瑶席(ようせき)に奠(てん)し 雲中君(うんちゅうくん)を下さんと欲(ほっ)す |
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解説 | 椒園は山椒を植えてある畑で、漆園の近くにあったようです。王維の詩は楚辞の世界を濃厚に踏まえていて、すべての語に典拠の説明が必要ですが、ここでは省略いたします。王維は『罔川集』最後のこの詩で、罔川荘経営の目的が楚辞のような清浄な世界の実現にあることを述べているように思います。 |
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