成都府 卜居
杜甫の一家が蜀の成都に着いたのは、759年末のたそがれどきだった。七月、華州の司功参軍の職を辞して秦州に向かったのだから、激動の半年間、秦州・同谷と滞在して成都にたどり着いたことになる。初めから、成都に来るつもりではなかった。
1101成都府
翳翳桑楡日,照我征衣裳。我行山川異,忽在天一方。
但逢新人民,未蔔見故郷。大江東流去,遊子日月長。
曾城填華屋,季冬樹木蒼。喧然名都會,吹簫間笙簧。
信美無與適,側身望川梁。鳥雀夜各歸,中原杳茫茫。
初月出不高,衆星尚爭光。自古有羈旅,我何苦哀傷!
翳りゆく夕日が、旅の衣(ころも)を照らしている
行けば次第に 山川の姿は異なり、いつのまにか 天の果てに来ていた
出逢うのは見なれない新しい人ばかり、故郷に帰る日も まだ決めてはいない
大河の水が 東に流れてやまないように、旅に出久しい月日が過ぎている
幾重もの城壁に立派な家屋が満ち、十二月というのに樹々は蒼く茂っている
にぎやかな大都会、簫の吹く音に 笛が交じり合う
真に美しいが 意にそわないところがあり、不安な気持で 川の流れ橋のあたりを眺めやる
夜ともなれば鳥はねぐらに帰っていくが、中原は遥かに遠く どこだか分からない
月は出たが まだ低いところにあり、無数の星が なおも光を争っている
古来人生に 旅はつきものだ、なんで私がいまさら傷み哀しむ必要があろう
成都には家がぎっしりと立ち並び、冬というのに樹々は青々と茂っている。成都は予想以上に賑やかな大都会であった。成都は古都であり政治的にも比較的安定していた。杜甫は「信に美なれども与に適する無し」と、はじめてみる城市にとまどいを感じながらも、ここまできた以上、覚悟をことと思う。末尾の二句「古より羇旅有り 我れ何ぞ苦だ哀傷せむ」は杜甫の哀しい決意を物語るものだ。
一家は、成都城外の西郊にあった浣花渓寺に旅装を解いた。
下し文
翳翳(えいえい)たり 桑楡(そうゆ)の日、我が征(たび)の衣裳を照らす
我れ行きて山川(さんせん)異なり、忽ち天の一方に在り
但(た)だ新人民に逢う、未だ故郷を見るを卜(ぼく)せず
大江(たいこう) 東に流れ去り、游子(ゆうし) 日月(じつげつ)長し
曾城(そうじょう) 華屋(かおく)填(うず)め、季冬(きとう)樹木蒼(あお)し
喧然(けんぜん)たる名都会(めいとかい)、簫(しょう)を吹き笙簧(しょうこう)を間(まじ)う
信(まこと)に美なれども与(とも)に適する無し、身を側(そばだ)てて川梁を望む
鳥雀 夜 各々(おのおの)帰り、中原(ちゅうげん) 杳(よう)として茫茫(ぼうぼう)たり
初月(しょげつ) 出でて高からず、衆星(しゅうせい) 尚(な)お光を争う
古(いにしえ)より羇旅(きりょ)有り、我れ何ぞ苦(はなは)だ哀傷(あいしょう)せむ
1102 酬高使君相贈
成都に到着してすぐに浣花寺宿坊に泊めてもらう。
酬高使君相贈
古寺僧牢落,空房客寓居。
故人分祿米,鄰舍與園蔬。
雙樹容聽法,三車肯載書。
草玄吾豈敢,賦或似相如。
古いお寺のお坊さんは心広く、空いている部屋に泊まらせてくれた。高適は自分の禄米を分けてくれて、お隣の人は畑の野菜をくれた。
二つ並んだ大きな木樹のもとでお経を聴きながら、車に乗せてもらって読書をしている。
これからのこと、心配だけど私はただやるだけであり、漢の時代この成都の地で、賦の名手であった司馬相如をまねてやっていこうと思う。
○牢落 ふしあわせ。まばら。心が広く、人に優れている。 ○故人 古くからの友人。死んだ人。高適のこと。 ○祿米 官僚の給料。 ○園蔬 畑の青物野菜。 ○聽法 ○載書 のせる。積む。行う。従事する。ものを覚える。 ○ 司馬相如 中国の前漢の頃の文章家である。蜀郡成都の人。
友人の高適(こうせき)がたまたま成都の北40kmほどのところにある彭州(四川省彭県)の刺史をしており、禄米をいくらかまわしてくれたようだ。
成都の浣花渓に住居を定めたことをのべている。「江外ノ草堂二寄せ題ス」詩に、「経営上元ノ始メ」とある。詩は到着の翌春760年上元元年の作。
草堂の建築費用は、母方の従兄弟で成都尹の王十五や裴冕幕下の従姪(従兄弟の子)杜済が一部を援助してくれ、親戚、友人の援助によって草堂は春のおわりまでにできあがった。
1103卜居
浣花溪水水西頭,主人為卜林塘幽。
已知出郭少塵事,更有澄江銷客愁。
無數蜻廷齊上下,一雙鵜瑞對沈浮。
東行萬裡堪乘興,須向山陰上小舟。
浣花渓の水の流るるその西のほとり、そこに自分は林塘の幽連なところを卜して住居ときめた。そこはくるわをはなれていて俗事がすくないことはわかっているうえに、自分の旅の愁いを消してくれるきれいな江もある。そのあたりにはたくさんのとんぼがそろってのぼりくだりをしているし、一対のおしどりはむきあって浮きつ沈みつしている。更に興に乗ずれば東のかた万里の遠くまでもゆくにさしつかえはない、機をみて小舟にのって山陰地方にまででかけるべきである。
浣花渓水(かんかけいすい) 水の西頭(せいとう)、主人為に卜(ぼく)す林塘(りんとう)の幽なるを
已に知る 郭を出でて塵事(じんじ)の少(まれ)なるを、更に澄江(ちょうこう)の客愁を銷(け)す有り
無数の蜻?(せいてい) 斉(ひと)しく上下し、一双の??(けいせき) 対して沈浮(ちんぷ)す
東行万里 興(きょう)に乗ずるに堪(た)えたり、須(すべから)く山陰に向かって小舟に入るべし
○卜居 住居のよしあしをうらなってさだめる。○浣花渓 渓は成都の西郭外にあり、一に百花澤ともいう。○主人 自ずからいう。○為卜 為めにとは自己のためにということ。○出郭 くるわをはなれること。○澄江 錦江をいう、澄は水のすんでいることをいう。○蛸挺とんぼ。○上下 のぼり、くだる。○鵜瑞 おしどり。○乗興 次の山陰の句をみよ。○山陰 石膏の王献之の故事、献之、字は子獣が山陰(漸江省紹興府)に居たとき、雪の夜にふと剣渓にあった戴安道を思い出し、舟に乗ってでかけたが、その門まで行ってひきかえしてしまった、人が其のわけをたずねたところ、子獣は「吾は本と輿に乗じて行く、輿尽きて返る。」と答えたという。
一家七人がいつまでも寺院の世話になりつつ、親類縁者の助けで、年明けから上元元年(760)の春にかけて、浣花渓の一角に草堂を建てた。敷地の広さは一畝(180坪)ほどで、西川節度使成都尹の裴冕(はいべん)世話をしてくれたものだ。
このあたりは成都の中心から4kmほど離れた閑静な田園地帯で、草堂は浣花渓(錦江の一部であり、河岸の西端、百花潭)の北の岸辺にあった。
尾聯の二句「東行万里 興に乗ずるに堪えたり 須く山陰に向かって小舟に入るべし」、詩的表現で閑雅で拘束のない生活を送ることよく表している。
1105 蕭八明府實處覓桃栽
隠遁生活、春の必需品のひとつ、草堂の周りに桃の木を植えた。
蕭八明府實處覓桃栽
奉乞桃栽一百根,春前為送浣花村。
河陽縣裡雖無數,濯錦江邊未滿園。
(蕭八明府實が處にして、桃を覓めて栽う)
桃を乞い奉りて栽えん 一百根、春前 爲に浣花村に送れ
河陽 縣裏けんり 無數なりと雖も、燿錦たくきん江邊こうへん、未だ園に滿たず
河陽縣云云。晉の潘岳河陽の令と爲り、満縣に跳李を種う。人、號して河陽一縣の花といふ
1106從韋二明府續處覓綿竹
○ 成都の一湧州に冖綿竹縣有り、 縣 に紫巖山有
り、綿竹は蓋し此の山に産す
前首の桃と今回の竹も隠遁生活の必需品です。
從韋二明府續處覓綿竹三數叢
華軒藹藹他年到,綿竹亭亭出縣高。
江上舍前無此物,幸分蒼翠拂波濤。
韋二明府績が處に從つて 綿竹三數叢を覓む
華軒 靄靄として他年到る
綿竹 亭亭として縣を出でて高し
江上の舍前 此の物無し
幸に蒼翠を分ちて波鱒を拂はしめよ
○ 伸華軒。膨杉畿斟の軒
○ 嚇昂菖・。慫属乂の椀
○此物。綿竹をいふ
○ 蒼翠。竹の色をいふ
○ 汲謹厨.、錦江の浪
1107 憑何十一少府悒覓榿木栽
県尉何?の世話ではんの木をもとめた詩。
杜甫は、草堂の経営に一生懸命です。桃の木、竹、今回は比較的成長の早いはんの木をうえました。
草堂塹西無樹林,非子誰複見幽心?
飽聞榿木三年大。與致溪邊十畝陰。
わたしの草堂のはりの西の方には樹木のはやしがない。あなたでなければだれがわたしの幽遠をめずる心を知ってくれるものがあろう。三年ごし大きくなっているはんの木があなたの方にあることはよくきいている。どうぞわたしのためにこのかわべりの十畝の樹陰をおくってください。
(何十一少府悒に憑りて榿木を覓めて栽す)
草堂の塹西ざんせい 樹林無し
子に非ずんば誰か復た幽心を見ん
飽くまで聞く榿き木 三年にして大なるを
與ために溪邊十畝の陰を致さしめん
何十一少府?に憑りて 榿木數百を覓めて栽う
○憑 おかげをこうむる。
○何十一少府畠 県の尉官何畠、少府は尉の敬称、時に何畠は利州綿谷県の尉である
与は「為めに」ということ、致とはこちらへおくってよこすこと。○渓辺 渓
○ 草堂。偽就弔蕉溪のね阜堂なわ'
○ 塹。 溝、小川。
○ 幽心。風雅な心
○ 榿。 木の名。はんの木。三年たてば大木になる。水辺に植える。幹は薪、実は染料。
1108 憑韋少府班覓松樹子
憑韋少府班の世話で松をもとめた詩。
杜甫は、草堂の経営に一生懸命です。桃の木、竹、はんの木、そして今度は松をうえました。
落落出羣非?柳,青青不朽豈楊梅?
欲存老蓋千年意,為覓霜根數寸栽。
韋少府班に憑りて 松樹の子を覓めて栽う
落落として羣を出でて欅柳に非ず
青青として朽ちず豈に楊梅ならんや
存せんと欲す老蓋千年の意
爲めに松根數寸を覓めて栽う
○ 欅柳。楊柳なり
○ 楊梅。ヤマモ、
○ 老蓋。 松千歳にして方に頂平にして偃蓋なすとの世傳あり.
1109 又於韋處乞大邑瓷碗
今度は白い磁器の茶碗を貰い受ける詩です。
又於韋處乞大邑瓷碗
大邑燒瓷輕且堅,扣如哀玉錦城傳。
君家白碗勝霜雪,急送茅齋也可憐。
叉韋が處に於いて大邑の瓷碗を乞ふ
大邑だいゆうの燒瓷しょうじ 輕うして且つ堅し
扣たたけば 哀玉の如ぐ錦城に傳ふ
君が家の白碗はくわん、霜雪に勝れり
急に茅齋ぼうさいに送らば也また憐む可し
○ 又韋が處. 韋の名は班、先に韋に憑りて松樹の子を覓め、今叉瓷碗を乞ふ、又といふ所以なり、 松樹め子を覓むるの詩は後の花木類に出づ ○瓷。 磁器。きめのこまかいやきもの。かめ。
○瓷碗。 焼き物の碗、臨?の大邑で産出されたもの。
○哀玉 聲の清細なるもの。
○茅齋。 杜甫の浣花草堂をいふ
1110 詣徐卿覓果栽
徐卿に果物の木を貰い受ける詩。詩人ですから、頂き物をした場合、きちんと詩を詠ってお返しをしたようです。
詣徐卿覓果栽
草堂少花今欲栽,不問漉帑o黄梅。
石筍街中卻歸去,果園坊裡為求來。
徐卿に詣りて 果子を覓めて栽う
草堂花少うして今栽ゑんと欲す
問はず 緑李と黄梅とを
石筍街中 卻つて歸り去って
果園坊裏 爲に求め來れ
○加橡李。杢 十五種の内に緑李有りといふ
○石筍街。成都城の西門に在り、郎ち秦氏の遺址、僅に百五十歩なり
○果園坊。徐卿が居處
1111 堂成
草堂のできたことを詠ずる。上元元年春暮の作であろう。 七言律詩
草堂の周りに友人から戴いた木々が植えられ、草堂が完成したことを詠います。
堂 成
背郭堂成蔭白茅,麹]路熟俯青郊。
榿林礙日吟風葉,籠竹和煙滴露梢。
暫止飛烏將數子,頻來語燕定新巣。
旁人錯比揚雄宅,懶惰無心作解嘲。
城の外廓をせ負うて白い茅で屋根をかけた堂ができあがった。江沿いの通い慣れた路にあたって青い野原をみおろすことができる。はんの木の林は日光をさえぎってその実は風に鳴っておるし、籠竹の露を滴らす梢は煙をもおびている。しばし来てとまる烏は三四の雛を連れており、ちゃくや鳴きかわしてしきりにやってくる燕はここに新しき巣を置いておくことにした。わきの人はまちがえてこの宅を揚雄の宅に比べるものがあるが、そういわれても自分はなまけもので「解嘲」を作ろうという心ももたぬ。(そのままにしておく。)
○背部 くるわを負うこと。○蔭 かやをかぶせて屋根をふいたことをいう。〇線江 かわぞい。○路熟 往来になれたこと。○僻 みおろすこと。○青郊 青い草のある野外。○榿林 ?氏からもらったはんの木。○擬日 日光をさえぎる。○籠竹 竹の種類の名、節のあいだが八九寸あるという。○和煙 煙をおびること。○将 率いること。○語燕さえずるっぱめ。○勇人よその人。○錯此まちがえてなぞらえる。○揚雄宅漢の衷帝の時、雄が隠れて「太玄経」を起草したとき、人が玄の髪の尚お白いことを嘲ったので「解嘲」を作った。太玄の語がはなはだくろいとの意をもつからである。○解嘲 上をみよ。
(堂成る)
背郭堂成りて白茅に蔭わる
縁江路熟して青郊に俯す
榿林日を礙る風に吟ずる葉
籠竹煙に和す露を滴らす梢
暫く止まる飛鳥は数子を将い
頻りに来たる語燕は新巣を定む
旁人錯って此す揚雄が宅
懶惰にして解嘲を作るに心無し
1113 梅 雨 杜甫51歳 成都 浣花渓草堂
梅 雨
南京犀浦道、四月熟黄梅。
湛湛長江去、冥冥細雨來。
茅茨疏易濕、雲霧密難開。
竟日蛟龍喜、盤渦與岸廻。
南京の犀浦県の吾が居宅の道では四月に梅のみが熟する。このときの長江の水は湛湛とたたえて流れ去り、暗っぽくこまかな雨がふってくる。吾が家のかやぶきのやねはまばらであるから湿りやすく、雲や霧は濃くとざして開けがたい。一日じゅう喜んでいるものは水中の蛟龍であり、水面のうずまきは岸勢にしたがって回転しつつある。
成都郊外に我が家があり、4月は梅が熟している。
川にあふれんばかりの水が流れ、厚い雲でしとしとと小雨が降っている。
カヤぶきの屋根は湿気がはいる、雲や霧は戸をあけておくことができない。
こんな時でも一日中喜んでいる奴は水中の蚊龍。水面の渦巻きは岸辺に沿って流れていく。
南京犀浦の道 四月黄梅熟す
湛湛として長江去り 冥冥として細雨来たる
茅茨疎にして湿い易く 雲霧密にして開け難し
竟日蚊竜喜ぶ 盤渦岸廻る
1116 有客
ふいの来客のあったことを詠んだ。上元元年760年49歳
患氣經時久,臨江卜宅新。
喧卑方避俗,疏快頗宜人。
有客過茅宇,呼兒正葛巾。
自鋤稀菜甲,小摘為情親。
自分はながらく肺の病気をしているが、このごろ江のそばにあらたに居宅を卜した。ちょうどやかましくいやしい世俗を避けることができ、きままに世はなれているところは自分にとってぐあいがよろしい。かかるところへお客が茅ぶきの家へ訪ねてくれたので、こどもを呼んで葛の頭巾をかぶりなおす。客にそなえるものは手づくりの野菜だ。それは自分が鋤いてつくったので心立ちは稀ではあるが、こころやすのお客であるからすこしばかりこれを摘んでさしあげるのだ。
○有客もと「有客」の詩と「賓至」(本書にはとらぬ)の詩とはその名目がいれちがいになっていたが、仇氏が「草堂本」によってそれを正した。有客とは偶然に来客のあったことをいう。不意の客。○患気 肺気の病をわずろう。実際には、喘息であった。○臨江 江は錦江。○喧卑 やかましくいやし、俗居のさま。○疎快 世事とときかってかってに気もちよくして居ること。○宜人 自己にとってつごうがよい、人というのは琶くいったまでである。○葛巾 くずの絨警もって織った頭巾。○菜甲 甲とは野菜のでたてのくきをいう。○小摘 すこしばかりつむ。○情親 こころやすい人、来客をさしていう。
(客有り)
気を患(うれ)いて時を経(ふ)ること久しく、江に臨みて宅を卜すること新たなり
喧卑(けんぴ) 方(まさ)に俗を避く、疎快(そかい) 頗(すこぶ)る人に宜(よろ)し
客有りて茅宇(ぼうう)を過ぐ、児(じ)を呼びて葛巾(かつきん)を正す
自ら鋤(す)けば菜甲(さいこう)稀なり、小(すこ)しく摘むは情親(じょうしん)の為なり
生活自体に満足感を持っているときの状況が良く現れた詩です。詩人としての矜恃をしっかり持っていた杜甫らしい詩だと思います。
杜甫の周りの全体把握から始まって、身近な出来事、そして杜甫の心境を詠うお得意のスタイルです。
1117 賓至
上元元年760年49歳七言律詩1117賓至 賓至 760年 成都 草堂本による 呉若本では「有客」となっている。
幽棲地僻經過少,老病人扶再拜難。
豈有文章驚海??謾勞車馬駐江幹。
竟日淹留佳客坐,百年粗糲腐儒餐。
不嫌野外無供給,乘興還來看藥欄。
町の郊外の離れたところなので人通りも少ない、私は病気がちで年を取っているのでもう治らないのではないだろうか。
ただ、詩文に関しては負けることはないだろう、いまころはそぞろに車馬でここ浣花溪とか池のほうに止めてながめている。
詩文を語り合えるお客とは一日中ひざをつき合わせられるし、(詩文のためなら)一生粗末な食事が続いても我慢できる。
ゆっくりすることがなくいやな気分になったら、ここ浣花溪にきて花園を見ればよい。
幽棲ゆうせい地僻ちへきにして經過少まれなり、老病人に扶けられて再拜し難し。
豈に文章の海内を驚かす有らんや、謾に車馬を勞して江幹こうかんに駐む。
竟日淹餾えんりゅうして佳客坐す、百年 粗糲それい 腐儒の餐さん
野外供給無きを嫌はずんば、興に乘じ還また來りて藥欄やくらんを看よ。
○賓。 尊客をいふ、題に賓と稱し詩中に再拜といひ、車馬といふ貴人なること知るべし
○經過少。僻地心客の來過少しとなり
○老病。杜甫当時腰脚の病ありしか、賓至るも再拜難しとなり
○江幹に駐む。江は浣花溪、干は水涯なり、賓客の車馬を草堂堂に駐めしむるなり
○佳客。賓にして佳、蓋し共に文章を論ずるの客なるべし
○淹餾えんりゅう。 久しくとどまること。
○百年。なお終生といふがごとし
○粗糲それい。玄米飯
○藥欄やくらんを看よ。薬園のかこい。粗糲のみにして供給無きも花園を見よとなり